田中頼三 評価

田中頼三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/04 01:54 UTC 版)

評価

帝国海軍関係者の評価

当時の水雷戦隊・駆逐隊・駆逐艦関係者は「第二水雷戦隊司令部は弱い」と批判していた[28]。「語らず誇らずの人だった。戦闘の駆け引きがうまく、海の武田信玄のようだ」という部下からの評価もある[10]

高松宮の評

高松宮宣仁親王(皇族、海兵52期、海軍大佐)は、1月中旬のフィリピン攻略作戦中の田中司令官の打電(攻略作戦ハ航空撃滅戦一段落後ニ実施スルノ要、切ナルモノアルヲ痛感セリ、発2Sd司令官〔第二水雷戦隊〕司令官)について「『神通』(当時二水戦旗艦)が悲鳴をあげてゐる」と表現している[39]第二次ソロモン海戦時の田中については「コウナルト田中司令官、遠山先任参謀ハマルデ駄目ダト云フ札付ニナル。第二十四駆逐隊司令、村上大佐仝ジ様ナ駄目ナリ。困難ナリト云ツテモヨイガ、ソレヲヤレト云ハレタラヤツテノケルダケノ断行力ガナクテハナラヌ」と評している[40]

奥宮正武の評

奥宮正武(海兵58期、太平洋戦争時、第二航空戦隊参謀など)は「(海外の著名人が誤った評価をする事について)田中少将の件がその一例である。太平洋戦争に参加した日本軍の高級指揮官について論評する場合には、他人の所見を引用するだけではなく、自らの努力で、できる限り事実関係を詳細に調査したのち、そうすることが望ましい」と評している[4]

1942年11月30日のルンガ沖夜戦の当夜、奥宮は、第二航空戦隊(司令官:角田覚治中将)航空参謀として、戦闘海面からほど近い海域を行動中の旗艦「隼鷹」で刻々と戦闘速報に接していた[6]。奥宮は、ルンガ沖夜戦の大戦果は、田中が避退した後に、第1輸送隊(駆逐艦4隻)を巧みに指揮し、あえて低速で行動した上で敵艦隊を雷撃した第15駆逐隊司令・佐藤寅治郎大佐(海兵43期、1943年2月12日付で軽巡神通」艦長、同年7月12日のコロンバンガラ島沖海戦で沈没した「神通」と運命を共にした[41])の武功が大と判断しており、アメリカ側が田中を高く評価するのは、単に田中が「ルンガ沖夜戦の時の日本側部隊の指揮官」だったからではないか、と疑問を呈している[6]。奥宮は、1942年当時に、田中を二水戦司令官から解任した海軍当局の処置を妥当と感じたと述べ、ルンガ沖夜戦に先立つトラック泊地での作戦会議で田中が極めて消極的な発言をしていたことを証言している[6]

黛治夫・小島秀雄の評

黛治夫(海兵47期、水上機母艦秋津洲艦長、重巡利根艦長など)は、米軍の田中に対する高評価に対し、実際には部下からの評判が悪かったことに触れ「部下だった人は、名将とはだれも思っていない。部下から勇敢だと思われるぐらいの指揮官じゃないといかん」と評している[42]小島秀雄(海兵44期、ドイツ駐在武官など)は黛のこの発言に対し「成功すれば褒められるのさ」と応じている[42]

アメリカ海軍関係者の評価

海軍上層部からはたび重なる意見具申(航空機による爆撃支援要請や艦隊根拠地の後方移転)を煙たがられ、勇壮を重んじる部下からの評判も芳しくなく、帝国海軍での評価は低かったが、はるかに優勢なアメリカ艦隊を相手に大勝を収めたルンガ沖夜戦の指揮官として、敵側であったアメリカからの評価は非常に高かった[43]。海軍戦史家であるサミュエル・エリオット・モリソンが"redoubtable Tanaka"(不屈の猛将・田中)と評し、軍事史研究家のハンソン・ボールドウィンは、その著書の中で「太平洋戦争で日本の名将を2人挙げるとするなら、陸の牛島・海の田中」と綴った[44]

アメリカ側からの高い評価を受けて、戦後の日本では田中が再評価されるようになった[4]


  1. ^ 水雷学校高等科を優等で卒業している。
  2. ^ 大正9年11月19日付 海軍公報 第2444号。
  3. ^ 昭和16年9月15日(発令9月15日付)海軍辞令公報(部内限)第713号 p.26」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082100 
  4. ^ a b c d e f g h #奥宮、太平洋戦争337-339頁「田中頼三少将」
  5. ^ 戦史叢書28 1969, p. 239.
  6. ^ a b c d 奥宮 2000, 第二章 二五人の提督と参謀 一九、田中頼三-国の内外で評価が異なる司令官
  7. ^ 昭和17年12月31日(発令12月29日付)海軍辞令公報(部内限)第1022号 p.12」 アジア歴史資料センター Ref.C13072088700 
  8. ^ 昭和18年2月5日(発令2月5日付)海軍辞令公報(部内限)第1048号 p.45」 アジア歴史資料センター Ref.C13072089600 
  9. ^ 昭和18年10月1日(発令10月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1228号 p.24」 アジア歴史資料センター Ref.C13072093500 
  10. ^ a b #完本太平洋戦争上296頁
  11. ^ #戦藻録(1968)174頁
  12. ^ #戦史叢書83ガ島戦26頁
  13. ^ #戦史叢書83ガ島戦27-28頁
  14. ^ #戦藻録(1968)179頁
  15. ^ #高松宮日記4巻492頁
  16. ^ a b c d e f #戦史叢書83ガ島戦31-33頁「増援部隊指揮官の更迭」
  17. ^ #戦藻録(1968)181頁。及び木俣滋郎「日本水雷戦史」189、191頁
  18. ^ #戦史叢書83ガ島戦31頁及び木俣滋郎「日本水雷戦史」190頁
  19. ^ #高松宮日記4巻489頁(高松宮親王は「遂ヒニ第八艦隊モ怒ッテ第二水雷戦隊ヲ追ヒカヘシタ。コレ位ノ処置ヲセネバ、コノ戦況ヲヤッテハユケヌ」と評している)
  20. ^ #戦藻録(1968)182頁
  21. ^ #戦史叢書83ガ島戦163頁
  22. ^ #戦史叢書83ガ島戦349頁
  23. ^ #戦史叢書83ガ島戦380頁
  24. ^ #戦史叢書83ガ島戦381頁
  25. ^ a b c d e #戦史叢書83ガ島戦397-398頁「第二次輸送船団の壊滅」
  26. ^ #連合艦隊の栄光(角川)155頁
  27. ^ #戦藻録(1968)253頁
  28. ^ a b #戦史叢書83ガ島戦436頁
  29. ^ #戦史叢書83ガ島戦441頁
  30. ^ #高松宮日記5巻296-297頁「三和第十一航空艦隊先任参謀《聯合艦隊ヨリ新着任》ヒラキナホツテ、駆逐艦輸送ヲ止メルコトヲ申シイレタノデ《十一日一回実施ノ切札ヲ長官、軍司令官ノ話合ニトツテオイタツモリナランモ、陸軍側トシテハ、話ノ余地ナキ印象ヲ受ケタル形ナリシ由」
  31. ^ #高松宮日記5巻298-299頁
  32. ^ a b c #戦史叢書83ガ島戦446-447頁「第四次ガ島ドラム罐輸送」
  33. ^ 英語版記事によるとPT-37、40である。
  34. ^ #戦藻録(1968)262頁
  35. ^ #主計大尉152頁
  36. ^ #主計大尉153頁
  37. ^ #戦藻録(1968)264頁
  38. ^ a b #高松宮日記5巻335-336頁「参謀総長『ガ』島作戦ニツキ奏上。海軍デ輸送ヲヨクヤラヌト云フ現地電報ニツイテ申上ゲタ(略)現地伝ハ十一日夜ノ駆逐艦ドラム缶輸送モ駆逐艦ガ遠クカラ周章トシテ投ゲ出シタノデ、一二〇〇缶中二五〇ヨリトレナカツタ等アリ。辻中佐ノ(ママ)『カンゝ』ニナツテルノデ、ソンナコトマデ奏上シタ」
  39. ^ #高松宮日記4巻19頁
  40. ^ #高松宮日記4巻496-497頁
  41. ^ 秦 2005, p. 488, 第2部 陸海軍主要職務の歴任者一覧-11.艦長-神通
  42. ^ a b #完本太平洋戦争下452頁および高戸顕隆著『海軍主計大尉の太平洋戦争』より
  43. ^ #連合艦隊の栄光(角川)156-157頁「米戦史、敵将たたう」
  44. ^ a b c #完本太平洋戦争上294頁
  45. ^ #波濤を越えて16頁
  46. ^ #完本太平洋戦争上300頁
  47. ^ #波濤を越えて76頁
  48. ^ a b #完本太平洋戦争上295頁
  49. ^ 中西輝麿の著編『昭和山口県人物誌』、升井卓弥 編『山口県百科事典』 において「ケネディ大統領水雷艇を撃沈したエピソードがある」とあるのは、双方の人事異動等の時期から勘案すると誤り。ケネディの水雷艇「PT-109」を日本が撃沈したのは駆逐艦「天霧」であり、時期はガダルカナル撤退作戦後の1943年(昭和18年)8月1日コロンバンガラ島輸送作戦の時で艦長は花見弘平少佐であった。一方、駆逐艦「照月」の沈没は1942年(昭和17年)12月12日である。






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