林董 家族

林董

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/16 04:37 UTC 版)

家族

平成新修旧華族家系大成』と『近代日本の万能人・榎本武揚』と『蘭医佐藤泰然』を参照[57][58][59]

著書

  • 『有栖川二品親王欧米巡遊日記』(編)回春堂、1883年。
  • 『後は昔の記』時事新報社、1910年。
  • 『後は昔の記他 林董回顧録』(由井正臣校注、平凡社東洋文庫、1970年)

翻訳

  • ジョン・スチュアート・ミル『彌児經濟論』吉松四郎、1875年
  • テート『訓蒙天文略論』島村利助、1876年
  • ホンフレー・プリドウ『馬哈黙(マホメット)伝』干河岸貫一、1886年
  • 賓雑吾(ベンサム)『刑法論綱』干河岸貫一、1879年
    • 日本立法資料全集 別巻 406 信山社出版、2006年
  • 『泰西政史』抄訳 回春堂、1881年
  • マキァヴエリ羅馬史論』博文館、1906年
  • 『修養の模範』訳編 丙午出版社、1909年

脚注


注釈

  1. ^ 誕生日を2月22日とする資料もある[1]
  2. ^ 林が釈放された理由は彼の才能を惜しんだ黒田の関与があったからだが、きっかけは林が榎本の脱走の趣意書『徳川家臣大挙告文』を英訳した文を受け取ったハリー・パークスがその英文の見事さに驚いたという噂を黒田が耳にしたことにあった。また敗戦で弘前藩預かりになった際、林の英語力を見込んだ官軍により先に釈放されそうになったが、林は全員の釈放を求め応じなかったことがかえって官軍に感心されたという逸話も残っている[7][8]
  3. ^ 明治35年3月30日付の本国宛て報告書『日英同盟協約締結書』では、イギリスとの交渉中にロシアと交渉した伊藤を強く非難している。それによると、伊藤はロシアへ行く前にダブル・ディーリングの危険性を訴えた林に協商を結んではならないと説得され同意したにも拘らず、ロシアで協商について深く話し合ったことを了解に苦しむと記し、伊藤をそそのかしたとして随行員の都筑馨六にも怒りをぶつけている。ただし、駐英公使の林には日露交渉を知ることが出来ないためこの非難は林の誤解と考えられ、後に林は当時の日本の事情を考えれば止むを得ないことだったかもしれないと書いている[22][23]

出典

  1. ^ 林董 初版 [明治36(1903)年4月] の情報 - 人事興信録データベース
  2. ^ 米欧亜回覧の会 & 泉三郎 2019, p. 68-70.
  3. ^ 芳賀徹 2020, p. 128-130.
  4. ^ 榎本隆充 & 高成田亨 2008, p. 291-292.
  5. ^ 米欧亜回覧の会 & 泉三郎 2019, p. 70-71.
  6. ^ 芳賀徹 2020, p. 130-131.
  7. ^ a b 榎本隆充 & 高成田亨 2008, p. 292.
  8. ^ 米欧亜回覧の会 & 泉三郎 2019, p. 67,71.
  9. ^ 米欧亜回覧の会 & 泉三郎 2019, p. 71-72.
  10. ^ 芳賀徹 2020, p. 131.
  11. ^ 米欧亜回覧の会 & 泉三郎 2019, p. 72-74.
  12. ^ 芳賀徹 2020, p. 133-134.
  13. ^ a b c d e f 新版日本外交史辞典 1992, p. 842.
  14. ^ 朝日新聞社 1994, p. 1342-1343.
  15. ^ a b c d e f 臼井勝美 & 高村直助 2001, p. 848.
  16. ^ 芳賀徹 2020, p. 134.
  17. ^ a b c d e 朝日新聞社 1994, p. 1343.
  18. ^ 榎本隆充 & 高成田亨 2008, p. 292-293.
  19. ^ 佐道明広 & 小宮一夫 2008, p. 159.
  20. ^ 米欧亜回覧の会 & 泉三郎 2019, p. 74-75.
  21. ^ 芳賀徹 2020, p. 144.
  22. ^ 佐道明広 & 小宮一夫 2008, p. 161-162.
  23. ^ 芳賀徹 2020, p. 145-148.
  24. ^ a b c d 榎本隆充 & 高成田亨 2008, p. 293.
  25. ^ 米欧亜回覧の会 & 泉三郎 2019, p. 75-76.
  26. ^ 七人の有名な日本人メィーソン”. 東京メソニックセンター. 2009年6月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年3月30日閲覧。
  27. ^ 佐道明広 & 小宮一夫 2008, p. 162-163.
  28. ^ 佐道明広 & 小宮一夫 2008, p. 163-166.
  29. ^ 服部敏良 & 2010, p. 23.
  30. ^ 米欧亜回覧の会 & 泉三郎 2019, p. 76.
  31. ^ 佐道明広 & 小宮一夫 2008, p. 166-167.
  32. ^ 佐道明広 & 小宮一夫 2008, p. 158,167.
  33. ^ 芳賀徹 2020, p. 126-127.
  34. ^ 米欧亜回覧の会 & 泉三郎 2019, p. 70,72.
  35. ^ 芳賀徹 2020, p. 130-132.
  36. ^ 芳賀徹 2020, p. 134-140.
  37. ^ 芳賀徹 2020, p. 150-154.
  38. ^ 『官報』第3567号「叙任及辞令」1895年5月23日。
  39. ^ 『太政官日誌』明治6年、第152号
  40. ^ 『官報』第1019号「叙任」1886年11月20日。
  41. ^ 『官報』第1635号「叙任及辞令」1888年12月10日。
  42. ^ 『官報』第3151号「叙任及辞令」1893年12月28日。
  43. ^ 『官報』第4943号「叙任及辞令」1899年12月21日。
  44. ^ 『官報』第6995号「叙任及辞令」1906年10月22日。
  45. ^ 『官報』第286号「叙任及辞令」1913年7月12日。
  46. ^ 『官報』第1324号「叙任及辞令」1887年11月26日。
  47. ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
  48. ^ 『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。
  49. ^ 『官報』第4949号「叙任及辞令」1899年12月28日。
  50. ^ 『官報』第5593号「叙任及辞令」1902年2月28日。
  51. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
  52. ^ 『官報』第7266号「授爵・叙任及辞令」1907年9月16日。
  53. ^ 『官報』第2430号「叙任及辞令」1891年8月5日。
  54. ^ 『官報』第2503号「叙任及辞令」1891年10月31日。
  55. ^ 『官報』第4051号「叙任及辞令」1896年12月28日。
  56. ^ 『官報』第7992号「叙任及辞令」1910年2月16日。
  57. ^ 村上一郎 1994, p. 19-20.
  58. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 376.
  59. ^ 榎本隆充 & 高成田亨 2008, p. 292,332.






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