書智徳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 15:16 UTC 版)
経歴
弘文天皇元年(672年)壬申の乱の勃発時、書智徳は大海人皇子の舎人であり、6月24日に皇子が挙兵を決意して吉野を発った際、草壁皇子・忍壁皇子や20人ほどの他の舎人と共に智徳は皇子に当初から従った[1]。
天武天皇10年(681年)小錦下の冠位と連の姓を与えられる[2]。天武天皇14年(684年)八色の姓の制定に伴い、書氏は連姓から忌寸姓に改姓している。また、持統朝に入ってから、壬申の乱の功労により100戸の封戸を与えられている[3]。
持統天皇6年(692年)5月20日に直大壱(正四位上相当)の冠位と賻物(葬儀の際の贈り物)を贈られた[4]。この日か直前に死んだと推定される。
大宝元年(701年)大宝律令が施行された際、大宝令の功封条に従って、かつて智徳に与えられた封戸100戸の1/4が子息に相続され[3]、元正朝の霊亀2年(716年)には壬申の乱の功臣の子息として、智徳の子の塩麻呂(位階は従七位上)が功田を与えられている[5]。
参考文献
- 宇治谷孟『日本書紀 (下)』講談社学術文庫、1988年
- 宇治谷孟『続日本紀 (下)』講談社学術文庫、1995年
- 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年
- 1 書智徳とは
- 2 書智徳の概要
固有名詞の分類
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