斉藤慶子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/28 17:56 UTC 版)
本名 | 出生名:斉藤慶子 | ||||||||||
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生年月日 | 1961年7月14日(62歳) | ||||||||||
出生地 | 日本・宮崎県小林市 | ||||||||||
血液型 | A型 | ||||||||||
ジャンル | 女優、タレント | ||||||||||
活動期間 | 1982年 - | ||||||||||
配偶者 |
木本裕仁(1997年 - 2008年) 中村規脩(2011 - ) | ||||||||||
公式サイト | 太田プロダクション | ||||||||||
主な作品 | |||||||||||
「東雲楼 女の乱」 | |||||||||||
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来歴
大学在学中の1982年、日本航空「JAL沖縄キャンペーンガール」に約800人の応募者の中から選ばれた[1]。これにより芸能界入りして熊本大学教育学部心理学専攻を中退し、上京。大学の先輩でもある「宮崎美子2世」とも呼ばれグラビアモデルで活動[2]、歌手デビューもした。1983年、映画に初出演。
1995年、前年の映画「東雲楼 女の乱」の演技により第18回日本アカデミー賞優秀助演女優賞を受賞[1]。
1997年7月、7年の不倫交際を経て、12歳年上の実業家木本裕仁と結婚し、2000年6月に長女を出産するが、2008年5月に離婚。親権は斉藤が持つ[3]。
2007年、東国原英夫が宮崎県知事に初当選した際、祝福のコメントを述べた。同年、宮崎県の観光や農畜産物をPRする「みやざき大使」に選出された[1]。
2009年8月、アップフロントエージェンシー(現:アップフロントプロモーション)から、太田プロダクションに移籍。
2011年11月、15歳年上のショップジャパン創業者の中村規脩(なかむらただし)と子連れ再婚した[4]。
2017年4月、慶應義塾大学大学院メディアデザイン科に進学[1]。
エピソード
子供時代
宮崎県小林市に一人っ子として生まれる。父は市役所勤務だったが[5]、辞めて養魚場を経営。幼い頃から両親の喧嘩が絶えず、宮崎県立小林高等学校3年の時に別居し、翌年離婚。父は大学2年の時に再婚。1988年10月に母親が自殺している[6]。
小学生の頃は自宅が小学校に近かったため、近所の友達と放課後に運動場や学校裏の麦畑などで遊び、家では“リカちゃん”(人形)遊びをしていた[1]。子供の頃から勉強が得意で健康体だったが、体育は苦手だった[1]。小学3年生頃に、テレビドラマ『アテンションプリーズ』が大ヒットした影響を受け、子供の頃の将来の夢は、「スチュワーデス(現・キャビンアテンダント)になること」だった[注釈 1]。
中学時代はブラスバンド部に所属し、クラリネットを担当した[1]。高校生の頃は進学クラスに所属したことから、異性や恋愛には目もくれず勉強に励んだ[注釈 2]。
大学時代に芸能界入り
大学に入学してすぐ、地元の鶴屋百貨店でモデルのアルバイトをする機会があり、広告やチラシの撮影のために初めて東京に訪れた[1]。その際、斉藤の担当者経由で「こういう子(斉藤)が熊本にいるんですよ」と東京のモデル事務所に紹介されたことで、後日東京で行われるオーディションを受けることになった[1]。
大学1年生の夏休みに1週間ほど東京に出ていくつかのオーディションを受けると、その中のJALのキャンペーンガールに合格した[注釈 3]。当時は“キャンペーンガールの仕事が終わったら大学に戻り、卒業したらスチュワーデスになろう”と考えていた[1]。しかし芸能界での仕事が楽しく、気づけばスチュワーデスの受験資格(当時あった年齢制限)の25歳を過ぎたことで、その夢を諦めた[1]。
注釈
- ^ クルー(乗務員たち)が制服をビシッと着て、空港を歩く姿に憧れました。キャスターバッグを引いて颯爽と歩く、あの『ゴロゴロ』がしたかったんです」と回想している[1]。
- ^ 本人によると、「そのクラスでは、先生から『家では週に50時間勉強しなさい』と言われていたので、それを実行していました。一般的には異性や恋愛に興味を持つ年頃ですが、私は当時“男子からどう見られているか”なんて考えたこともなかったです。もちろん恋愛経験なんて一切なし(笑)」と回想している[1]。
- ^ 当時について本人は後に、「東京の何にびっくりしたかって、テレビのチャンネルの多さ!。当時、熊本や宮崎は2局しか映らなかったので、私が東京のテレビに出ても親も友達も誰も知らないのです。それに、そもそもその頃、熊本にはJALの旅客機が飛んでいなかった(笑)。だから友達に『私、飛行機会社の沖縄キャンペーンガールやっているんだ』って話しても、“すごい!日通航空の?”って言われたくらい、誰にも知られていなかったですね(笑)」と述懐している[1]。
- ^ 『相棒』の再放送がある1時間だけはテレビの前のソファに寝転がり、トイプードルのハッピーを膝の上に乗せてドラマを鑑賞している。本人は「トリックがあって謎解きがあって1時間で完結するのがいい、それで5時にパッと画面がニュースに替わって、現実にかえる(笑)。私にとっては、大切な時間です」と語っている[1]。
- ^ 本人によると、「ファッション街と地下街を1時間半くらい歩いて、レストラン街で食事するだけで超満足!。健康のためにしていることは特にありませんが普段から歩くのが速いので、もしかすると私の健康法は、家の中とデパートを速足で歩くことかもしれません」と語っている[1]。
- ^ 正答率は2割7分4厘だったが歴代ワースト2位の24連敗を記録。2012年の復刻版で大御所ダービーの2枠回答者だった。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v “JAL沖縄キャンペーンガール 女優・主婦・大学院の2年生”. マンション生活情報サイト「Wendy-Net」より「Ms Wendy」 (2018年9月掲載). 2023年6月16日閲覧。
- ^ 週刊サンケイ1982年3月4日号 p.38
- ^ "斉藤慶子 不倫7年→結婚11年→円満離婚". スポニチAnnex. 2008年12月29日. 2023年3月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月11日閲覧。
- ^ 斉藤慶子、玉の輿婚の相手は通販経営者-芸能速報-デイリースポーツ online
- ^ 「人間ナウ 斉藤慶子」『週刊明星』、集英社、1982年4月8日号、165頁。
- ^ FRIDAY フライデー 1988年10月21日号☆斉藤慶子の母親が自殺
- 1 斉藤慶子とは
- 2 斉藤慶子の概要
- 3 人物
- 4 ディスコグラフィ
- 5 脚注
固有名詞の分類
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