名越流北条氏
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概観
祖の朝時は義時の正室姫の前の長男であったが、父の勘気を被って義絶された。北条氏本家は側室所生であった異母兄・北条泰時が継いで嫡流の得宗家を起こし、朝時は庶家の名越家を興す。
朝時は執権である兄・泰時の下で評定衆を務めることを拒否するなど反抗の態度を示し、泰時の死去の際にも後継を巡って何らかの不穏な動きがあったとみられる。朝時の死後も嫡男・光時が泰時の孫で5代執権となった時頼に反抗し、将軍・九条頼経を擁して宮騒動を起こすが、敗北して光時は出家、強硬派であった弟の時幸は自害している。
その後、光時の弟である時章、教時、時基は幕府評定衆を務めるが、文永3年(1266年)、得宗・北条時宗らによる将軍・宗尊親王追放にあたり、これに反対する教時は時宗の制止を無視して軍兵を率いて示威行動に出ている。その後、文永9年(1272年)に二月騒動が起こり、時宗の命により時章・教時が謀反の咎(とが)で討伐され、この事件を契機に名越家の反抗は終わった。
しかし即座に、二月騒動での時章の処分は誤殺であったとされ、子孫らに罪は無しとされ、逆に討手となった得宗家御内人らが処刑された。時章の系統は名越流の嫡流として幕府内で引き立てられ、また弟・時基の系統も要職に就くなど、以降の名越流は得宗家に従順となる。一方、二月騒動で没収された名越流の、特に九州の所領国は返還されることはなく、これは元の侵攻(元寇)に対する得宗家を中心とする抗戦には有利に働いたが、名越流の鎮西での影響力は完全にとはいえないまでも後退した。これらを含めて二月騒動以降、一門でも独自の勢力を持っていた名越流は得宗家の支配下に伏することとなった。
鎌倉幕府の滅亡に繋がる元弘の乱では、名越流最後の当主・北条高家が六波羅探題救援のため足利高氏と共に上洛し、後醍醐天皇方と戦って討ち死にした。越中守護であった名越時有は越中守護所(放生津城)で戦ったが敗れた(この様子は『太平記』にも悲話として伝わっている参照)。幕府崩壊後は、中先代の乱に乗じて時有の遺児である名越時兼が北陸で挙兵し京を目指したが敗れた。また、東海道方面では小夜中山合戦にて名越高邦が戦死した。さらに、島津荘日向方南郷(現在の鹿児島県曽於市・宮崎県都城市)では遠江掃部助三郎・同助四郎(助の字は誤字か)兄弟が挙兵している。かれらの名字は伝わっていないが、兄弟の父は遠江守であり、名越流からは掃部助に任官した人物が多数でていることから、兄弟は名越流出身であると考えられる[1]。その後も西国や北国など、全国的に散発した旧鎌倉幕府勢力による反乱の中心勢力として名越氏が度々活躍するが、得宗家の北条時行の起こした中先代の乱に呼応した越中の名越時兼の例など、各所でその都度鎮圧され、次第に終息した。同時に名越氏の勢力も各地で滅びていった。
また代々室町幕府奉公衆の一番衆に属する今川那古野氏は高家の子・名越高範(母が今川氏)が叔父である今川頼国に保護され養子となった後裔であるとする話が伝わっており(『難太平記』)、その子孫とされる人物には名古屋山三郎、今川氏豊などがいる。
昭和から平成にかけての日本の俳優であった高倉健は北条篤時の子孫を自称しており、生前に鎌倉の東勝寺跡地など、北条氏所縁の地に奉納などを行っていた[2]
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