北条時基とは? わかりやすく解説

北条時基

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/23 14:45 UTC 版)

 
北条時基
時代 鎌倉時代中期 - 後期
生誕 嘉禄2年(1236年
死没 未詳
改名 時基、道西[1](法名)
別名 名越時基、遠江七郎[1]
官位 刑部少輔、遠江守、従五位下
幕府 鎌倉幕府引付衆評定衆、3番引付頭人、2番引付頭人
主君 宗尊親王惟康親王
氏族 北条氏名越流
父母 父:北条朝時、母:北条政村の娘[1]?
兄弟 光時時章時長時幸、時兼、教時時基、他
正室:北条貞時の娘
側室:二階堂行久の娘
宗基、時賢、朝貞、時有、時高
テンプレートを表示

北条 時基(ほうじょう ときもと)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、北条氏の一門。名越流の祖・北条朝時の子。

生涯

時基の史料上の初見は建長5年(1253年)で、康元2年(1257年)2月2日以前に六位の地位にあった[1]

名越流と得宗家との対立により、兄たちが宮騒動二月騒動で度々討伐を受けるが、兄弟の中でも年少であった時基は、その埋め合わせ的に引き立てられ、文永10年(1273年)6月、38歳で引付衆となり、弘安元年(1278年)、43歳で評定衆となる。弘安3年(1280年)11月、遠江守、弘安6年(1283年)4月、三番引付頭人。弘安7年(1284年)4月、執権北条時宗の死去に伴って出家し、法名は道西と称する[1]

その後、三番引付頭人を再任、二番引付頭人就任などを繰り返し、正安元年(1299年)4月1日、64歳の時に三番引付頭人を辞任した記録が最後である。

『鎌倉年代記』では永仁6年(1298年)4月9日の記事を最後に登場しない[1]

脚注

  1. ^ a b c d e f 安田元久 編 『鎌倉・室町人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、548頁。 




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「北条時基」の関連用語

北条時基のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



北条時基のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの北条時基 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS