吉川経光
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/09 05:19 UTC 版)
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時代 | 鎌倉時代 |
生誕 | 建久3年(1192年) |
死没 | 文永4年9月17日(1267年10月6日) |
改名 | 経光→慈願(法名)[1] |
別名 | 弥次郎または左衛門次郎、弥二郎[1]、恒光[1] |
官位 | 左衛門尉[1] |
主君 | 鎌倉幕府 |
氏族 | 藤原南家工藤流吉川氏 |
父母 | 父:吉川朝経[1] |
子 | 経高[1]、経盛[1]、経茂[1]、経信[1]、経時 |
仁治元年(1240年)に父吉川朝経が死去。この時の経光の年齢は49歳であり、それ以前に家督を相続していたと思われる。事実、経光は承久3年(1221年)の承久の乱でも鎌倉幕府側として参戦しており、京都の宇治橋の戦いにて戦功を挙げ、本領の駿河国吉河荘、播磨国揖保郡福井荘に加えて、安芸国大朝荘の地頭職に任ぜられた。
経光の子らが安芸吉川氏、石見吉川氏、播磨吉川氏、駿河吉川氏、境吉川氏の祖となった。
参考文献
- 今井尭ほか編 『日本史総覧』3(中世 2)、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。全国書誌番号:84023599。ISBN 4404012403。NCID BN00172373。OCLC 11260668。ASIN B000J78OVQ。
- 岡部忠夫編著 『萩藩諸家系譜』 琵琶書房、1983年8月。全国書誌番号:84027305。NCID BN01905560。ASIN B000J785PQ。
- 北広島町史
- 中国新聞社 『歴史紀行 安芸吉川氏』 新人物往来社、1988年6月。ISBN 4-404-01517-8。
- 萩藩閥閲録
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