十段戦 (将棋)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/04 00:55 UTC 版)
永世九段・永世十段
九段のタイトルを連続で3期獲得した棋士には、永世称号である「永世九段」が与えられる。ただし、タイトルの永世称号としての永世九段と、段位としての九段とは、ほとんど区別されていない。九段のタイトルを連続3期獲得した棋士は塚田正夫・大山康晴の2名である。塚田は九段のタイトル失冠後も「永世九段の資格を根拠に段位としての九段を名乗った」と一般的に認知されている。また、大山は永世九段の資格を得た時点ですでに段位が九段であったため、永世九段の資格を新たに得たものとして扱われることはほとんどない。
十段のタイトルを通算で10期(なお、十段戦終了時に制度の見直しが行われ、九段戦のタイトル獲得数を合算して数えることとなった)獲得した棋士には、同じく永世称号である「永世十段」が与えられる。永世十段の棋士は大山康晴・中原誠の2名。中原は長年に渡るタイトル保持者としての功績により、現役で永世十段を呼称した。
なお、永世十段とは異なるが、塚田正夫は没後に名誉十段を追贈された。また、徳川家康には段位として十段が贈られている。
歴代七番勝負
全日本選手権戦名人九段戦は五番勝負。1950年九段戦は三番勝負、1951年から1955年までの九段戦は五番勝負。
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九段戦
第7期九段戦以降
年度は七番勝負が実施された時点。○●は九段から見た勝敗、千は千日手、持は持将棋。網掛けの対局者が勝者。
期 | 年度 | 九段戦七番勝負 | トーナメント | ||||
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決勝進出者 | 勝敗 | 決勝進出者 | ベスト4 | ||||
7 | 1956 | 升田幸三 | ●○○○○-- | 塚田正夫 | 大山 | 花村 | |
期 | 年度 | 九段 | 勝敗 | 挑戦者 | 挑戦者決定トーナメント | ||
準優勝 | ベスト4 | ||||||
8 | 1957 | 升田幸三 | ○○●●○○- | 大山康晴 | 塚田正 | 加藤一 | 五十嵐 |
9 | 1958 | 升田幸三 | ○○●●●●- | 大山康晴 | 加藤一 | 原田 | 灘 |
10 | 1959 | 大山康晴 | ●●○○○●○ | 二上達也 | 高島一 | 丸田 | 松田茂 |
11 | 1960 | 大山康晴永 | ○○○○--- | 松田茂行 | 大野源 | 加藤博 | 二上 |
12 | 1961 | 大山康晴 | ●●○○○○- | 二上達也 | 大野源 | 加藤博 | 丸田 |
十段戦
年度は七番勝負が実施された時点。○●は十段から見た勝敗、千は千日手、持は持将棋。網掛けの対局者が十段戦勝者。 リーグ戦の、網掛けの対局者は最高成績、網掛けの対局者は最低成績または下から2番めの成績(降格線上)。
但し先述の通り、挑戦者決定/残留決定のプレーオフは原則行われず[注 5]、順位に基いて挑戦/残留が決定された。2期は4位が、3期以降は5位が予選突破。
期 | 年度 | 十段戦七番勝負 | リーグ | |||||||||||
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リーグ1位 | 勝敗 | リーグ2位 | シード(九段経験者) | 予選突破 | ||||||||||
1 | 1962 | 升田幸三 | ●○●●○○● | 大山康晴 | 大山◎ | 塚田正▼ | 升田◎ | 大野源 | 灘▼ | 二上 | ||||
期 | 年度 | 十段 | 勝敗 | 挑戦者 | 1 | 2 | 3 | 4 | ||||||
2 | 1963 | 大山康晴 | ○●○○●●○ | 升田幸三 | 升田◎ | 二上 | 大野源 | 熊谷 | 加藤博▼ | 廣津▼ | ||||
期 | 年度 | 十段 | 勝敗 | 挑戦者 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | |||||
3 | 1964 | 大山康晴 | ○●○○●○- | 升田幸三 | 升田◎ | 二上 | 熊谷 | 大野源▼ | 加藤一 | 長谷久▼ | ||||
4 | 1965 | 大山康晴永 | ○●○○●●○ | 二上達也 | 升田 | 二上◎ | 加藤一 | 熊谷▼ | 塚田正▼ | 山田 | ||||
5 | 1966 | 大山康晴 | ●○○○○-- | 二上達也 | 二上◎ | 山田 | 加藤一 | 升田 | 丸田▼ | 有吉▼ | ||||
6 | 1967 | 大山康晴 | ○●持○○○-- | 二上達也 | 二上◎ | 山田 | 加藤一 | 升田 | 灘▼ | 佐藤大▼ | ||||
7 | 1968 | 大山康晴 | ○○●●○●● | 加藤一二三 | 二上▼ | 山田 | 升田 | 加藤一◎ | 松田茂▼ | 西村 | ||||
8 | 1969 | 加藤一二三 |
|
大山康晴 | 大山◎ | 山田 | 升田▼ | 西村▼ | 中原 | 内藤 | ||||
9 | 1970 | 大山康晴 | ●●●○○●- | 中原誠 | 加藤一 | 山田▼[注 6] | 中原◎ | 内藤 | 加藤博 | 大友▼ | ||||
10 | 1971 | 中原誠 | ●○○●○○- | 大山康晴 | 大山◎ | 加藤一 | 内藤 | 加藤博▼ | 塚田正▼ | 桐山 | ||||
11 | 1972 | 中原誠 | ○○○●○-- | 大山康晴 | 大山◎ | 加藤一 | 内藤 | 桐山▼ | 米長 | 升田→二上▼[注 7] | ||||
12 | 1973 | 中原誠 | ●○○●○●● | 大山康晴 | 大山◎ | 米長 | 加藤一▼ | 内藤 | 加藤博▼ | 佐藤大 | ||||
13 | 1974 | 大山康晴 | ●○●●●-- | 中原誠 | 中原◎ | 米長 | 内藤 | 佐藤大▼ | 有吉 | 勝浦▼ | ||||
14 | 1975 | 中原誠 | ○○○○--- | 大山康晴 | 大山◎ | 内藤 | 米長 | 有吉 | 二上▼ | 桐山▼ | ||||
15 | 1976 | 中原誠 |
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加藤一二三 | 大山 | 米長 | 有吉 | 内藤▼ | 二上▼ | 加藤一◎ | ||||
16 | 1977 | 中原誠 | ●○●○○●○ | 加藤一二三 | 加藤一◎ | 大山▼ | 米長 | 有吉 | 淡路 | 土佐▼ | ||||
17 | 1978 | 中原誠 | ○○○●●●○ | 米長邦雄 | 加藤一 | 米長◎ | 有吉▼ | 淡路▼ | 大山 | 森安秀 | ||||
18 | 1979 | 中原誠 | ○○●○○-- | 米長邦雄 | 米長◎ | 大山▼ | 森安秀 | 加藤一 | 桐山▼ | 勝浦 | ||||
19 | 1980 | 中原誠 | ●○●●●-- | 加藤一二三 | 米長 | 森安秀 | 加藤一◎ | 勝浦 | 田中魁▼ | 青野▼ | ||||
20 | 1981 | 加藤一二三 | ●○●○○○- | 米長邦雄 | 中原 | 森安秀 | 米長◎ | 勝浦▼ | 谷川 | 安恵▼ | ||||
21 | 1982 | 加藤一二三 | ●○●○●●- | 中原誠永 | 米長 | 中原 | 谷川▼ | 森安秀 | 大山 | 石田和▼ | ||||
22 | 1983 | 中原誠 | ●○●○○○- | 桐山清澄 | 加藤一 | 森安秀▼ | 大山▼ | 米長 | 桐山◎ | 西村 | ||||
23 | 1984 | 中原誠 | ●○○●●○● | 米長邦雄 | 桐山 | 西村▼ | 加藤一▼ | 米長◎ | 谷川 | 福崎 | ||||
24 | 1985 | 米長邦雄 | ●○○●○●○ | 中原誠 | 中原◎ | 谷川 | 福崎 | 桐山▼ | 有吉▼ | 有森 | ||||
25 | 1986 | 米長邦雄 | ●●○○●●- | 福崎文吾 | 中原▼ | 谷川 | 福崎◎ | 有森▼ | 桐山 | 高橋 | ||||
26 | 1987 | 福崎文吾 | ●●●●--- | 高橋道雄 | 米長 | 高橋◎ | 谷川 | 桐山 | 有吉▼ | 泉▼ |
リーグの定員は6名、入れ替えも年2名であったことから、リーグ戦入りは難関中の難関といわれた。過去の在籍者もほとんどがタイトル・A級経験者である(しかも、九段と十段の経験者は全員、他のタイトルを1回以上獲得している)。
相星の場合は順位上位者が挑戦・残留となるルールだったため「リーグ順位上位者が有利」と言われていたが、極めてハイレベルな戦い[注 8]であったため、大山康晴・中原誠・谷川浩司といった(後の)永世名人有資格者もリーグ陥落の憂き目を見ている。
リーグ末期在籍者を除くと、一度もリーグから陥落しなかったのは米長邦雄だけである。
記録
- 十段の復位
注釈
- ^ ちなみに、このときの木村義雄と升田幸三の対局は、翌朝4時過ぎまでかかった210手の対局の後に「ゴミハエ問答」が行われたことで知られる金沢決戦である(山本武雄『将棋百年』時事通信社、1976年、192-193頁)。
- ^ 九段のタイトル戦の永世称号が段位であるというのは現在からすると不自然にも思えるが、タイトルとしての九段と段位として九段は明確に区別されてはいなかったようである。例えば1958年に段位として九段に昇段した大山康晴は、「塚田さんに次いで二人目の永世九段の資格を得た」(大山康晴『棋風堂々』 PHP研究所、1992年)と回想しており、自身の段位としての九段と塚田の永世九段は同一の資格であるとの認識を前提としている。
- ^ ただし、将棋史研究者の増川宏一によれば、当時はまだ「将棋所」という名称も「名人」という名称も存在していない。
- ^ この年、大山が新名人となったが、九段戦ですでに塚田は大山を破っていたため、前名人の木村が出場し、三番勝負を行った
- ^ 順位が同じ(予選突破者=5位)で成績が並んだ場合のみ、挑戦者決定戦/プレーオフを行うルールだったが、このルールに該当する事例が発生したのは、第10期のみである(順位5位の塚田正夫と桐山清澄が4勝で並び、残留決定戦を実施。桐山勝ちで残留)。
- ^ 第9期リーグでは、山田道美が3局指した後、1970年6月18日に急逝。残り7局の対局予定者は不戦勝扱いとなった。
- ^ 第11期リーグでは、升田幸三が3局だけで休場したため、残り7局を指すためのピンチヒッター決定戦を塚田正夫・二上達也・桜井昇で行ない、二上がリーグ入りした。4勝3敗で勝ち越したが、取り決めにより陥落した。
- ^ リーグ戦全26期中、全勝者が出たことは一度もなく、9勝も2度(第2期=升田、第24期=中原)だけである。その一方、6勝4敗で3人が並び、順位上位者が挑戦者となった例が2度ある(第6期=二上、第23期=米長)。
- ^ 1971年・1972年とも中原十段対大山挑戦者という構図でいずれも中原が防衛している。
出典
- ^ “88年創設、将棋界最高賞金4400万円 かつては海外対局も/竜王戦とは”. 日刊スポーツ (2021年11月13日). 2021年11月14日閲覧。
- ^ 加藤治郎、原田泰夫『[証言]将棋昭和史』(執筆)田辺忠幸、毎日コミュニケーションズ P.227「将棋昭和史年表」(加藤久弥、越智信義)
- ^ 加藤治郎、原田泰夫『[証言]将棋昭和史』(執筆)田辺忠幸、毎日コミュニケーションズ P.229「将棋昭和史年表」(加藤久弥、越智信義)
- ^ 加藤治郎、原田泰夫『[証言]将棋昭和史』(執筆)田辺忠幸、毎日コミュニケーションズ P.230「将棋昭和史年表」(加藤久弥、越智信義)
- ^ 加藤治郎、原田泰夫『[証言]将棋昭和史』(執筆)田辺忠幸、毎日コミュニケーションズ P.232「将棋昭和史年表」(加藤久弥、越智信義)
- ^ 加藤治郎、原田泰夫『[証言]将棋昭和史』(執筆)田辺忠幸、毎日コミュニケーションズ P.234「将棋昭和史年表」(加藤久弥、越智信義)
- ^ 加藤治郎、原田泰夫『[証言]将棋昭和史』(執筆)田辺忠幸、毎日コミュニケーションズ P.235「将棋昭和史年表」(加藤久弥、越智信義)
- 1 十段戦 (将棋)とは
- 2 十段戦 (将棋)の概要
- 3 永世九段・永世十段
- 4 脚注
- 十段戦 (将棋)のページへのリンク