京極高吉 生涯

京極高吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 05:50 UTC 版)

生涯

京極氏は南北朝以降、代々近江に割拠した名門である。愛知川以北の近江六郡の地領頭職をつとめた氏信を直接の祖とし、氏信の子の高氏(道誉)は、足利幕府立役者として活躍し、若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津の守護を歴任した[1]

高吉は父の高清に寵愛され、兄の高延と家督を争ったが、浅見貞則や浅井亮政を始めとする国人達の支持を受けた高延に敗れ、追放された。後に高延も浅井亮政と対立し追放され、京極氏の衰退は決定的となった。

追放後の高吉は南近江の六角氏の支援のもと、高延・浅井亮政と争った。後に高延と対立した浅井氏に父と共に北近江に迎えられ北近江の領主に一時返り咲くものの、傀儡であったため結局近江を離れることになる。一時13代将軍足利義輝の近臣として仕えたが、永禄3年(1560年)に権力奪回を目指して再び近江に下り六角氏と結んで浅井賢政(後の長政)に対して挙兵するも失敗し、近江における残された支配権を全て失う。高吉は浅井久政の娘を正室に迎えたが、この女性がのちに男子二人をもうけた京極マリアである[1]

永禄8年(1565年永禄の変において義輝が殺害されると、義輝の弟の足利義昭の擁立に尽力する。だが、義昭が織田信長と対立すると高吉自身は近江に隠居し、子の小法師(高次)を信長に人質として差し出した。小法師は元服後高次と名乗り、そのまま信長に仕えた。元亀3年(1572年)には、次男・京極高知が誕生している。

天正9年(1581年)、妻と共に安土城下の修道院で行われていたキリスト教の説教を40日にわたって聴き、ニェッキ・ソルディ・オルガンティノから洗礼を受けたが、その数日後に死去した[2]。突然の死に人々は仏罰で没したと噂したといわれる[3]


  1. ^ a b 清水有子、2017年、305頁
  2. ^ 結城了悟、2004年、287頁
  3. ^ 「説教を聴いた者の中に、かつて近江国の国主であった貴人がいたからである。彼は領国を失ったとはいえ、信長の庇護の下にあって今や偉大な殿であり、当城下にあるもっとも立派な邸宅の一つを所有していた。京極(高吉)殿と称するこの貴人は夫人と共に説教をことを決心したが、デウスのことをたいそう好むので四十日間続けて説教に耳を傾けてこれをよく悟り、四十日の終りには二人とも洗礼を受けた。この貴人たちには十一、二歳の幼い子息が一人あって、この頃、他所で信長に仕えていた。父親は彼が帰った時に家族全員と共に洗礼を受けさせることに決めていたが、それより数日後、我らの主が父親を御許に召し給うたので、その望みは叶えられなかった。彼の死によってその子息ならびに家人は皆、依然として異教徒のままであり、父の死は神と仏の罰によるものと考えて非常に畏れた。」(「十六・七世紀イエズス会日本報告集」第Ⅲ期6巻、同朋舎、1991年、54-55頁。 1582年2月15日付、長崎発信、ガスパル・コエリュ師のイエズス会総長宛、(1581年度)日本年報)


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