五色塚古墳 文化財

五色塚古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 22:20 UTC 版)

文化財

重要文化財(国指定)

  • 兵庫県五色塚古墳出土品 一括(考古資料) - 神戸市埋蔵文化財センター保管。内訳は次の通り[11]。2012年(平成24年)9月6日指定[8]
    • 鰭付円筒埴輪 42点
    • 鰭付朝顔形埴輪 3点
    • 円筒埴輪 3点
    • (附指定)形象埴輪残欠 17点
    • (附指定)土器・土製品 15点

国の史跡

  • 五色塚(千壺)古墳 小壺古墳 - 1921年(大正10年)3月3日に指定、1974年(昭和49年)5月22日・1979年(昭和54年)7月2日・2006年(平成18年)7月28日に史跡範囲の追加指定[7]

神戸市指定文化財

  • 有形文化財
    • 史跡五色塚古墳・小壺古墳出土品 328点(考古資料) - 神戸市埋蔵文化財センター保管。2010年(平成22年)3月19日指定[16]

伝承

関係略系図(数字は代数)
神功皇后
 
14 仲哀天皇
 
大中姫命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
誉田別尊
15 応神天皇)
麛坂皇子忍熊皇子

五色塚古墳に関しては、『日本書紀神功皇后摂政元年2月条が関連記事として知られる[1]。同条によれば、新羅征討から戻った神功皇后が、征討前に崩御した仲哀天皇(第14代)の遺骸および誉田別尊(のちの第15代応神天皇)を伴って大和に戻る際、麛坂皇子忍熊皇子(いずれも仲哀天皇皇子)が次の皇位が誉田別尊に決まることを恐れて皇后軍を迎撃しようとした。続けて、

原文
乃詳為天皇作陵、詣播磨興山陵於赤石。仍編船絙于淡路嶋、運其嶋石而造之。
書き下し文
乃ち天皇の為に陵を作ると詳り(いつわり)、播磨に詣りて(いたりて)、山陵(みささぎ)を赤石に興つ(たつ)。仍りて船を編みて淡路島に絙し(わたし)、其の島の石を運びて造る。 — 『日本書紀神功皇后摂政元年2月条(抜粋)[17]

として、両皇子が仲哀天皇の陵の造営のためと偽り、淡路島まで船を渡しその石を運んで赤石(= 明石)に陣地を構築したとする[17]。この伝承について、明石の海沿いで「陵」と呼べる規模の古墳は五色塚古墳のみであることから、古くより五色塚古墳がこの「赤石の山陵」に比定されている[1]

上の伝承に関連する記事として、『播磨国風土記』賀古郡大国里条(印南郡大国里条)にも、息長帯日女命(神功皇后)が帯中日子命(仲哀天皇)の埋葬の際に讃岐国の羽若石(= 羽床石か[18])を求めたとする伝承がある[17]。なお、『播磨国風土記』では明石郡条が欠落していることもあり、五色塚古墳自体に関する記述はない[1]

現地情報

所在地

見学

  • 時間:午前9時から午後5時まで
  • 料金:無料
  • 定休日:月曜、年末年始

交通アクセス

関連施設








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