モンゴルの歴史 北元

モンゴルの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/05 07:22 UTC 版)

北元

北元(ドチン·ドルベン)

エセン・ハーン時の最大版図。
15世紀の東アジア諸国と北方諸民族。

中国史における元朝は1368年に滅ぶが、中央ユーラシア史における元朝は滅んではおらず、モンゴル高原へ退却した後も約20年間はクビライの王統は続いており、さらに約100年間は「大元」の国号を使い続けていた。一方、明朝の中国人は北元政権を「蒙古」と呼ばずに「韃靼」と呼んで元朝の後裔であることを否認した。1388年に最後のクビライ裔であるトグス・テムル(ウスハル・ハーン、天元帝、末主、在位:1378年 - 1388年)がアリク・ブケ裔のイェスデルに殺害されると、北元政権はさまざまな部族の権力者によってチンギス裔のハーンが擁立されるようになる。

その中で頭角を現したのがオイラト部族である。オイラト部族は代々アリク・ブケ家に協力し、イェスデルがハーンに即位した際もその支持をしていた。しかし、エルベク・ハーンの時にモンゴルとオイラトの対立が始まり、北元はクビライ家を支持する「四十(ドチン)モンゴル」とクビライ家を支持しない「四(ドルベン)オイラト」の二つに分かれて争うようになる。この争いはオイラトのトゴン・タイシがクビライ裔のトクトア・ブハ(タイスン・ハーン、在位:1433年 - 1452年)を擁立することで一旦終息する。

1439年にトゴン・タイシが没すると、後を継いだ子のエセン・タイシは東では大興安嶺山脈を越えて女直人を服従させ、1449年には明との交易問題が原因で戦闘になり、正統帝(英宗)を捕虜にする土木の変を引き起こし、西ではチャガタイ・ウルスの東半分であるモグーリスタンを制圧し、ウズベクアブル=ハイル・ハンを撃破した。1452年、タイスン・ハーンはエセン・タイシの選んだ皇太子を拒んだために、エセン・タイシと戦って殺された。エセン・タイシはチンギス家の皇族を皆殺しにした後、自らハーン位(在位:1453年 - 1454年)に就き、「大元天聖ハーン」と称したが、翌年に反乱を起こした部下によって殺害される。

その後しばらく政治的空白が続いたが、チンギス裔で唯一生き残ったバト・モンケがダヤン・ハーン(在位:1487年 - 1524年)となり、モンゴルの再統一を果たすと、モンゴル高原を6つの大部族(トゥメン)に分け、左翼(チャハルハルハウリヤンハン)と右翼(オルドス部トメトヨンシエブ)に配置した。ダヤン・ハーンの直轄領が左翼のチャハル部であったので、代々チャハル部のハーンがモンゴルの宗家であったが、右翼のトメト部長アルタンが次第に勢力を増していったため、「トシェート・セチェン・ハーン」[24]の称号を得て、モンゴル2番目のハーン(アルタン・ハーン)となり、オイラト征伐や中国難民の保護、チベット仏教の再導入など、さまざまな改革をおこなった。また、明朝からは「順義王」の称号を得る[25][26]

アルタン・ハーン死後のトメト部は急速に勢力を失い、六代の後にチャハル部長リンダン・ハーンの侵攻に遭い、滅亡する(1628年)。モンゴル宗家であるリンダン・ハーンはモンゴル諸部の再統一をもくろみ、ハラチン・ハーン家とトメト・ハーン家を滅ぼし、オルドス晋王家を服従させたが、チベット遠征途中で病死した(1634年)。時に、ヌルハチホンタイジ父子による女直(ジュシェン)族の勢力拡大により、各部族が女直側につくようになる。チャハル部もまたリンダン・ハーンの死により勢力を失ったため、その子エジェイが女直軍に降伏して元朝ハーンの玉璽をホンタイジに差し出した。これにより女直族のホンタイジはチンギス・ハーンの受けた天命が自分にも移ったとして、1635年に民族名を「女直(ジュシェン)」から「満洲(マンジュ)」に改め、後の清朝となっていく[27]

ハルハ部の台頭

アルタン・ハーン(1507-1582年)

ハルハ部はダヤン・ハーンの末子ゲレセンジェの領する部族で、初めは高原の東側に遊牧する部族であったが、トメト部長アルタン・ハーンのオイラト征伐を引き継ぐとその領地を西へと広げ、いわゆる「外モンゴル」の原形となった。トメト部長アルタン・ハーンの死後、モンゴルでは各部でハーンが誕生したが、ハルハ部においても同様で、ハルハ部で最初にハーン位に就いたのがアバダイ・ハーンである。彼は1585年に仏教寺院エルデニ・ジョーをカラコルムの地に建立し、1586年には巡錫中のダライ・ラマ3世に謁見し、「ノムン・イェケ・オチル・ハーン(法の大金剛王)」の称号を賜った。彼の子孫が後にハルハ左翼のトシェート・ハーン家となる。アバダイ・ハーンの死後にオイラト征伐を引き継いだのはライフル・ハーンであり、彼の子孫が後にハルハ右翼のジャサクト・ハーン家となる。また、この当時ロシア帝国シベリアに進出しており、モンゴルで初めてロシアと接触したのが、ウバシ・ホンタイジであった。彼はアルタン・ハーンと名乗り、しきりにロシア使節と連絡を取り合い、ジャサクト・ハーンの副王(ホンタイジ)の立場にあったにもかかわらず、大きな勢力を持った。彼は1623年に四(ドルベン)オイラトの連合軍に殺されるが、彼の子孫はしばらくアルタン・ハーンの称号を使い続けた。モンゴルとオイラトは元朝が北方へ退却してから仇敵同士であったが、チャハル部を始めとした「内モンゴル」諸部が清朝の支配下に入ったため、1640年にジャサクト・ハーンの提唱により、モンゴル・オイラト会議が開催された。しかし一方で、ハルハの領主たちは清朝とも友好関係を築き、北方から迫るロシア帝国の要塞セレンギンスクやウジンスクを攻撃した。1662年、アルタン・ハーンであるエリンチンがジャサクト・ハーンであるワンシュクを殺害したことで、ハルハ部の内紛が始まり、オイラトのジューンガル部も巻き込んだために、ジューンガル部長ガルダン・ハーンの侵入を招いた。ガルダン・ハーンがモンゴル高原を席捲したため、数十万のハルハ部の人々は内モンゴルに逃れて清朝の康熙帝に臣従を誓い、康熙帝の親征によってガルダン・ハーンを高原から追い出すことに成功した。これにより、ハルハ部の領する高原北部は清朝の版図となり、「外藩蒙古」となる[28]


  1. ^ a b 沢田(1996), p. 3.
  2. ^ 『史記』匈奴列伝「唐虞以上有山戎、獫狁、葷粥,居于北蠻,隨畜牧而轉移。」
  3. ^ a b 『史記』匈奴列伝
  4. ^ 榎一雄は月氏の支配圏を甘粛からタリム盆地・天山北麓におよぶ広大なものであるとし、甘粛の月氏はその東端の一部にすぎないとした。
  5. ^ 呼掲』 - コトバンク
  6. ^ 祁連山』 - コトバンク
  7. ^ 『史記』匈奴列伝、『漢書』匈奴伝
  8. ^ 『後漢書』南匈奴列伝
  9. ^ 『三国志』鮮卑伝
  10. ^ 『晋書』四夷伝、『魏書』
  11. ^ 『魏書』列伝第九十一、『北史』列伝第八十六
  12. ^ 『周書』列伝第四十二、『隋書』列伝第四十九、『旧唐書』列伝第一百四十四上、『新唐書』列伝一百四十上、列伝一百四十下
  13. ^ 旧唐書』列伝第一百四十五、『新唐書』列伝第一百四十下、列伝第一百四十二上、列伝第一百四十二下
  14. ^ 宮脇(2002), p. 41.
  15. ^ 10世紀から11世紀における「九姓タタル国」 2011.
  16. ^ 宮脇(2002), p. 60,61.
  17. ^ 宮脇(2002), p. 63,64.
  18. ^ 宮脇(2002), p. 40,41.
  19. ^ 『遼史』本紀第二十四 道宗四「(大康)十年春正月辛丑朔,如春水。丙午,復建南京奉福寺浮圖。戊辰,如山楡淀。二月庚午朔,萌古國遣使來聘。三月戊申,遠萌古國遣使來聘。丁巳,命知制誥王師儒、牌印郎君耶律固傅導燕國王延禧。」
  20. ^ 宮脇(2002), p. 69-76.
  21. ^ 宮脇(2002), p. 77-115.
  22. ^ 宮脇(2002), p. 123-140.
  23. ^ 小松(2000), p. 190-209.
  24. ^ トシェートは「補佐」の意 (宮脇(2002), p. 153)。
  25. ^ 宮脇(2002), p. 140-155.
  26. ^ 小松(2000), p. 209-210.
  27. ^ 宮脇(2002), p. 174-177.
  28. ^ 宮脇(2002), p. 168-187.
  29. ^ 宮脇(2002), p. 219-232.
  30. ^ 宮脇(2002), p. 232-240.
  31. ^ 宮脇(2002), p. 239-253.





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