ベンスハイム 歴史

ベンスハイム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/01 06:04 UTC 版)

歴史

入植の歴史

ヘッセン南部地域は早くから入植が行われた地域である。多くの出土品が線帯文土器縄目文土器を使っていた農耕・放牧時代(紀元前2500年から1500年頃)に遡る。

中世

ベンスハイムは、765年のロルシュ文書にBasinsheimとして文献上に初めて記録されている。創設者は、入植地創設の権利を与えられたリッター・バジヌス(Basinus)である。

名前は、BasinsheimからBasinusheim、Besensheimを経てBensheimとなった。特筆すべきは、956年3月5日という早い時期に、皇帝オットー1世によって市場開催権が与えられているということである。オットー1世がフランクフルト・アム・マイン滞在中に、妻アーデルハイトの取りなしによって、ロルシュ修道院に最初の市場開催権を与えたということが、このテキストから読み取れる。「publicae mercationes」という概念がこの街にもたらされ、公の商取引が行われた。定期的な年ごとの市場や、週の市はこの頃にはまだ開催されていなかった。

フリードリヒ2世は、凋落したロルシュ帝国修道院の所領をマインツ大司教ジークフリート3世・フォン・エップシュタインにレーエンとして与え、これに伴ってベンスハイムは1232年にマインツ選帝侯領となった。この時にはすでにデカーデン、後の都市権が与えられていたと推測されるが、それが文書として遺されたのは1320年になってからであった。 1301年アルブレヒト1世よる都市包囲線の結果、この都市の大部分が破壊された。

近世

現在のアウエルバッハ区とシェーンベルク区はベンスハイムに隣接する村で、カッツェンエルンボーゲン伯とエアバッハ献酌侍従家の土地であった。1479年、カッツェンエルンボーゲン伯家の断絶によりその封土は北側に隣接するヘッセン方伯領となった。また、1532年にエアバッハ家がに昇格し、エアバッハ伯家が東に隣接することとなった。

ライン宮中伯に担保として出されていた時代、1461年から1650年にベンスハイムは隆盛期を迎えた。1504年にはプファルツ侯の都市としてバイエルン=プファルツ継承戦争に巻き込まれ、 帝国アハト刑の執行を委託されたヘッセン方伯とその同盟者であるハインリヒ・フォン・ブラウンシュヴァイクおよびハインリヒ・フォン・メクレンブルクによって11日間にわたって包囲されたのである(陥落はしなかった)。この年から年2回の市と週の市が定期的に開催されるようになった。第3の年の市は1619年から開催されることとなった。

1526年にヘッセン方伯領で、1544年にはエアバッハ伯領でも宗教改革がなされ、ベンスハイムは、政治勢力の境界だけでなく、異なる宗派の境界線にも位置することとなった。

1612年のベンスハイム

順調な発展は、三十年戦争で終わった。1644年11月20日にベンスハイムはフランス軍とスウェーデン軍に占領され、12月2日にバイエルン軍がこれらの軍を撤退させた。後のフラー・フン・ベンゼム(ベンスハイムの女)の伝説(バイエルン軍に秘密ルートを伝え進軍を助けたというもの)はこの時の話である。1650年、約200年間に及んだプファルツ選帝侯支配が終わり、マインツ大司教に返還された。

近代以降

1803年帝国代表者会議主要決議によってベンスハイムはヘッセン=ダルムシュタット方伯領となった。方伯は、1806年ライン同盟に加盟し、ヘッセン大公に昇格した。1822年に大火があり、16棟の建物が全焼し、15棟が深刻な損傷を負った。

ベンスハイムはプロフィンツ・シュタルケンブルクのラントラーツベツィルク・ベンスハイムの所在地となった(プロフィンツ、ラントラーツベツィルクは当時の地方行政区分)。コノラントラーツベツィルクは、1832年にラントラーツベツィルク・ヘッペンハイムと統合され、ベンスハイムを郡庁所在地とするベンスハイム郡となった。

1869年のベンスハイム

1918年に大公は廃位され、ヘッセン大公国からヘッセン人民州が創設された。1938年11月1日にベンスハイム郡とヘッペンハイム郡が合併してベルクシュトラーセ郡が設けられた。ベンスハイムは郡庁所在地でなくなる代償としてNSDAPの郡管理局の所在地となった。1938年11月9日のユダヤ人排斥運動でシナゴーグが破壊された。アウエルバッハのシナゴーグは無事であった。1939年にアウエルバッハ、シェーンベルク、ツェルが合併した。これにより人口が増大し、当時の人口は約16,500人となった。アウエルバッハにはナッツヴァイラー強制収容所の外部施設が設けられた。

1945年3月24日、キルヒベルクで12人の人物がゲシュタポに殺害された。2日後の3月26日、聖ゲオルク教区教会、市庁舎、旧市街の一部が焼夷弾によって破壊された。3月27日、ベンスハイムはアメリカ軍によって占領された。連合国の諜報活動連絡将校ヘンリー・キッシンジャーは占領国側の有用な代表者であり、その後正式に市の司令官をなった、1945年、ベンスハイムは新たに設けられたヘッセン州の管轄下となった。

第二次世界大戦後、ベンスハイム=アウエルバッハにDPキャンプが設けられた。はじめはポーランドの強制労働に従事させられていた人々を収容したが、後には「ディスプレイスト・パーソン」(戦前ドイツ領だったズデーテン地方など東部支配地から放逐された人々)を収容した。このキャンプは1949年4月に廃止された。

1971年、ラングヴァーデン、シュヴァンハイム、フェールハイム、ホッホシュテッテン、グローナウ、ヴィルムスハウゼンが合併したことで、人口は約34,000人になった。

1859年から1987年まで、シェーンベルク方面へのニーベルンゲン街道に、グントルム・ブロイ・ベンスハイムがあった。1979年にこのビール会社はビンディング・ビーア・マインツに移譲され、1987年に閉鎖、廃止された。現在、かつてのビール工場跡地は、たくさんの住宅が建ち並ぶ住宅地グントルム・ガレリーンとなっている。


  1. ^ Bevölkerung in Hessen am 31.12.2020 nach Gemeinden
  2. ^ Max Mangold, ed (2005). Duden, Aussprachewörterbuch (6 ed.). Dudenverl. p. 195. ISBN 978-3-411-04066-7 
  3. ^ Rolf Richter wird Bürgermeister in Bensheim, Echo Online 2014年5月26日付け(2015年9月22日 閲覧)
  4. ^ Bürgermeisterstichwahl - Bürgermeisterwahl Bensheim 2020 in der Stadt Bensheim - Gesamtergebnis”. 2021年1月3日閲覧。
  5. ^ ヘッセン文化財保護局、2008年4月23日現在
  6. ^ Webseite von Bandsheim
  7. ^ Webseite von Party-Bensheim[リンク切れ]
  8. ^ Webseite des SKJuz.
  9. ^ Webpräsenz der ベンスハイム市民大学 Archived 2009年3月21日, at the Wayback Machine.
  10. ^ ベンスハイム婦人ファミリー・センターのウェブサイト





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ベンスハイム」の関連用語

ベンスハイムのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ベンスハイムのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのベンスハイム (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS