ファーティマ朝のエジプト征服
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背景 — 初期のファーティマ朝によるエジプト征服の試み
909年にイフリーキヤでファーティマ朝(909年 - 1171年)が成立した。ファーティマ朝の始祖であるイスマーイール派の指導者は、その数年前に本拠地のシリアから逃がれ、自らの教宣員によるベルベル人のクターマ族への改宗運動が大きな成果を見せていたマグリブに向かった[1][2]。そしてその指導者が姿を隠し続けている間に教宣員のアブー・アブドゥッラー・アッ=シーイーに率いられたクターマ族がアグラブ朝の支配を打倒した。その後に指導者は姿を現し、アブドゥッラー・アル=マフディー・ビッラーフと名乗り、自らをカリフと宣言した[2][3]。アッバース朝の西縁における地方政権として留まることに甘んじていたアグラブ朝とは対照的に、ファーティマ朝はイスラーム世界の統一を主張した。ファーティマ朝のカリフはイスラームの開祖ムハンマドの娘でアリー・ブン・アビー・ターリブの妻であるファーティマの子孫であると主張し[4]、同時にシーア派の一派であるイスマーイール派の指導者であり、その信者は地上における神の代理人であるイマームとしてのカリフの神聖な地位を認めていた。そのため、ファーティマ朝は政権の樹立をスンニ派のアッバース朝を打倒してイスラーム世界全体の指導者としての正当な地位を取り戻すための最初の段階であるとみなしていた[5][6]。
このような王朝の理念に従い、イフリーキヤにおける支配の確立に続く次の目標を、シリアと敵対勢力のアッバース朝の本拠地であるイラクへ続く途上に位置するエジプトに定めた[7]。カリフの後継者に指名されていたアル=カーイム・ビ=アムル・アッラーフの指揮の下で914年に最初のエジプトへの侵攻に乗り出した。ファーティマ朝の軍隊はバルカ(キレナイカ)、アレクサンドリア、そしてファイユーム・オアシスを占領したものの、エジプトの首都であるフスタートの占領には失敗し、シリアとイラクからアッバース朝の援軍が到着した結果、915年には追い返されることになった[8][9]。ファーティマ朝の二度目の侵攻は919年から921年にかけて実行された。軍隊は再びアレクサンドリアを占領したものの、フスタートの前で撃退され、海軍は破壊された。カーイムはファイユーム・オアシスへ移動したが、到着したばかりのアッバース朝の部隊を前にしてその地を放棄し、砂漠を越えてイフリーキヤへ撤退することを余儀なくされた[10][11]。これらの初期の侵攻の試みが失敗に終わった原因は、主としてファーティマ朝の補給線が過度に拡大し、同時にアッバース朝の援軍が到着する前に決定的な成功を収められなかったことにあった。それでもなお、ファーティマ朝はエジプトを脅かす前進基地としてバルカを手に残した[12]。
930年代にアッバース朝が広範囲にわたる深刻な危機に陥っていた時に、ファーティマ朝はエジプトで935年から936年にかけて続いた軍の派閥間の抗争に付け込んで再び行動を起こした。しかし、この抗争で勝利を収めたのはファーティマ朝ではなくトゥルク人の将軍のアル=イフシード・ムハンマド・ブン・トゥグジュだった。イフシードは名目上はアッバース朝の総督であったものの、エジプトとシリア南部の支配権を確立し、事実上の独立政権としてイフシード朝を成立させた。ファーティマ朝の軍隊は一時的にアレクサンドリアを占領したが、短期間でイフシードの軍隊によって追い返された[13][14]。イフシードはエジプト占領後に起こったバグダードとの紛争中にファーティマ朝の支援を求めることをためらわず、自分の娘とカーイムの結婚による同盟さえ持ちかけていた。しかし、アッバース朝の宮廷がイフシードの統治と称号を再確認したことで、イフシードはこの提案を取り下げた[15][16]。
ファーティマ朝側では930年代後半までに王朝を権力の座につけた当初の革命的な熱意が衰え、普遍的な統治の理念が忘れ去られたわけではなかったものの、943年から947年にかけて続いたベルベル人のハワーリジュ派の指導者であるアブー・ヤズィードによる大規模な反乱に直面したために、その歩みは中断されることになった。この反乱はファーティマ朝政権を崩壊寸前まで追い詰め、反乱を鎮圧した後においても、しばらくの間は地中海西部における地位の回復に専念していた[17]。この間、エジプトは比較的平和な状態が保たれていた。946年にイフシードが死去した後、奴隷出身の黒人宦官でイフシードが軍の最高司令官に任命していた実力者のアブル=ミスク・カーフールの手に権力が渡った。その後の20年間、カーフールはイフシードの息子たちが統治者の地位に就いていた裏で実権を握っていたが、966年には自らが統治者となって支配した[18][19]。
注釈
- ^ カルマト派は最終的にファーティマ朝を誕生させたイスマーイール派と同じ地下運動に起源を持っているものの、後に初代のファーティマ朝のカリフとなるアブドゥッラー・アル=マフディー・ビッラーフが導入した革新的な教義を受け入れず、899年にその一派から離脱した[25][26]。同時代のイスラーム教徒による史料と一部の現代の学者はカルマト派がファーティマ朝と秘密裏に連携して攻撃していたと考えているが、この考えは反証を挙げられている[27]。ファーティマ朝は各地に散在するカルマト派の共同体にファーティマ朝の指導的な地位を認めさせようといくつかの試みを実行に移した。これらの試みは一部の地域では成功したものの、バフライン(東アラビア)のカルマト派は頑なに認めることを拒否した[28]。
- ^ サハラ以南との貿易、鋳造前の金の輸入、およびファーティマ朝の財政慣行がもたらした影響についての議論は、Brett 2001, pp. 243–266を参照のこと。
- ^ 宗派の勢力を拡大させることを目的とした国家組織の存在はファーティマ朝に独特なものであった。このような組織の存在はファーティマ朝によるイスラーム世界の統一を目指す活動の一環であるだけではなく、少数派であるイスマーイール派が教勢を維持するために継続的な教宣活動が必要であったことを示すものであると考えられている[59]。
- ^ 968年にシチリア島の総督のアフマド・ブン・アル=ハサン・アル=カルビーがエジプトへの遠征に向かう一部の海軍を率いるために家族とその財産とともに呼び戻された。アフマドは30隻の船とともにタラーブルスに到着したが、その後すぐに病に倒れて死去した[49]。史料では実際の征服時における海軍の活動については言及されておらず、征服から最も近い時点でイフリーキヤからエジプトに到着したファーティマ朝の艦隊についての言及がみられるのは972年の6月もしくは7月になってからである[71][72]。
- ^ 地元のイスラーム教徒はスンニ派が圧倒的に多数派であったにもかかわらず、アシュラーフ(ムハンマドの親族に連なる家系であると主張する人々)はエジプトで例外的に高い立場を享受し、アシュラーフの著名な人物はしばしば政治的な争いの調停役として求められた[79]。ファーティマ朝は地元住民と一体となったその影響力だけでなく、メッカとマディーナにいる近縁者のアシュラーフによって支配者の地位を認められることが重要であったために、積極的にアシュラーフの関与を求め、イスラーム世界における正当な指導者の地位に関するファーティマ朝の主張への後押しを得ようと注意を払っていた[80]。
- ^ この時のアマーンの文章は同時代のエジプトの歴史家であるイブン・ズーラーク(997年没)によって記録された。アマーンの詳細と、主として目撃者の証言からなるファーティマ朝による征服と最初の数年間の支配に関するイブン・ズーラークの記録は、イブン・サイード・アル=マグリビー、マクリーズィー、そしてイドリース・イマードゥッディーンなどによる、後の時代のほとんどすべての説明の基礎史料となっている[83][84]。マクリーズィーの引用によって伝えられているアマーンの文章については、Jiwa 2009, pp. 68–72を参照のこと。
- ^ ファーティマ朝の色はアッバース朝の黒とは対照的に白であったが、他に赤と黄色の旗がカリフ個人と結びつく形で存在していた。特定の重要な行事でカリフは赤い衣装に身を包み、両側には赤と黄色の旗が掲げられていたと考えられている[93]。
- ^ 近代以前の中東地域では、フトバで支配者の名前を読み上げることは支配者の持つ二つの特権のうちの一つであった(もう一つは硬貨を鋳造する権利)。フトバにおける名前の言及は支配者の統治権と宗主権を受け入れることを意味し、イスラーム世界の支配者にとってこれらの権利を示す最も重要な指標と見なされていた[97]。反対にフトバで支配者の名前を省くことは公に独立を宣言することを意味していた。また、重要な情報伝達の手段でもあるフトバは、支配者の退位と即位、後継者の指名、そして戦争の開始と終結を宣言する役割も担っていた[98]。
- ^ ファーティマ朝の宮廷がエジプトに移ったことで、結果として急速にイフリーキヤとシチリアに対する実質的な支配が失われた。その後の数十年でズィール朝とカルブ朝が事実上独立し、ファーティマ朝と敵対するまでになった[139]。
出典
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