ヒジャーズにおけるファーティマ朝の支配権の承認
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「ファーティマ朝のエジプト征服」の記事における「ヒジャーズにおけるファーティマ朝の支配権の承認」の解説
ファーティマ朝は主にムイッズが十二分な量の金を贈ったことで、ヒジャーズ地方(アラビア半島西部)と二つのイスラームの聖地であるメッカとマディーナにおいてより大きな成果を上げた。フサイン家が支配的な勢力であったマディーナに対してはアブー・ジャアファル・ムスリムが大きな影響力を持っており、969年(イブン・アル=ジャウズィー(英語版)とイブン・アル=アスィールによれば970年)には初めてファーティマ朝のカリフの名の下でフトバが読み上げられた。968年頃にメッカの支配を確立したばかりであったハサン家のジャアファル・ブン・ムハンマド・アル=ハサニー(英語版)は、ファーティマ朝によるエジプト征服の知らせが届くとすぐにムイッズの名においてフトバを読み上げたと言われている。しかし、ナジュム・アッ=ディーン・ウマルは、ファーティマ朝のカリフの名の下でフトバを朗誦させるために972年にジャアファルに対してファーティマ朝とマディーナの連合軍が派遣されたと記録している。また、イブン・アル=ジャウズィーとイブン・アル=アスィールは974年になってようやく金曜礼拝でムイッズの名が朗誦されたとしており、一方でマクリーズィーは現代では失われたファーティマ朝の公文書を基に975年と記録している。いずれにせよフトバはファーティマ朝のカリフの名の下で読み上げられるようになり、さらには974年から975年にかけてメッカへの巡礼が再開された。これらのヒジャーズのアシュラーフによるファーティマ朝の支配者の地位の承認は、自らの正統性に対するファーティマ朝の主張を大きく後押しすることになった。
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