トラッキー (カリフォルニア州)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/18 00:37 UTC 版)
トラッキー Town of Truckee | |
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ドナー峠道路 | |
位置 | |
ネバダ郡内の位置 | |
座標 : 北緯39度20分32秒 西経120度12分13秒 / 北緯39.34222度 西経120.20361度 | |
行政 | |
国 | アメリカ合衆国 |
州 | カリフォルニア州 |
郡 | ネバダ郡 |
町 | トラッキー Town of Truckee |
地理 | |
面積 | |
町域 | 87.7 km2 (33.8 mi2) |
陸上 | 84.3 km2 (32.5 mi2) |
水面 | 3.4 km2 (1.3 mi2) |
水面面積比率 | 3.87% |
標高 | 1773 m (5817 ft) |
人口 | |
人口 | (2020年現在) |
町域 | 16,729人 |
備考 | [1] |
その他 | |
等時帯 | 太平洋標準時 (UTC-8) |
夏時間 | 太平洋夏時間 (UTC-7) |
公式ウェブサイト : Town of Truckee |
町名の由来
トラッキーという名前はパイユート族インディアンの酋長の名前であり、部族の間での呼び名はトラ・キ・ゾ(Tru-ki-zo)だった。トラッキー酋長はウィネマッカ酋長の父、サラ・ウィネマッカの祖父だった。シエラネバダ山脈を越えてきた最初のヨーロッパ人がこの部族に遭遇した。友好的なトラッキー酋長はそのヨーロッパ人達にむかって馬で進みながら「トロ・ケイ」と叫んだ。これは「全てが良好」という意味のパイユート語だった。旅人たちはそうとも知らずにそれを酋長の名前だと思った。トラッキー酋長は後にジョン・C・フレモントのガイドを務めた[4]。
歴史
前史
タホ湖からトラッキー川が流れ出し、北東に約160km進んでネバダ州とユタ州に跨る乾燥したグレートベースンの境に至り、ピラミッド湖に入る。この水源はインディアンにとって自然の、季節により変化する通路となった。トラッキー川の地域に一年中住んだと考えられる特定の部族はいないが、ワショー族が現在のカーソンシティを中心とする広大な領土を支配した。ただし、ショショーニ族とパイユート族も住んでいた(現在パイユート族居留地がピラミッド湖を含んでいる)。これらの部族はこの地域のインディアン旅行者の主流であったと考えられている。アメリカ国道89号線沿いにトラッキー川の直ぐ北にあるホバートミルズにはネバダにおける行路によくある大きく、水平で、円形の岩面陰刻がある。この岩面陰刻の年代は結論が出て居らず、トラッキー川の西にある山の花崗岩板に彫られたものも同様である。しかし、それらの人工物はトラッキー地域全体で見つかっている多量の鏃同様、少なくとも数百年間にわたってインディアンが住んでいた証拠でもある。ユタやネバダ東部のショショーニ族とユト族および初期のフレモント族と同様、この近隣のインディアン部族人口は天候のサイクル、食料の変化、および病気や戦争の結果として1000年のあいだに変動した可能性がある。歴史家の中にはネバダ東部におけるフレモント族以前のインディアン文化が紀元前1万年に既にあったとする者がおり、トラッキー川があるシエラネバダ山脈東側はグレートベースンに面しているので、少なくとも紀元前3000年には狩猟採集型のインディアンが住んでいた可能性がある。ネバダやユタで見付けられた年代推定可能な住居跡がこの地域では見つかっていないので、これらの人々は純粋に遊牧民であった可能性がある。西部における近代史の展開と同様に、この地域でもヨーロッパ人開拓者が増加し、インディアンの人口は減っていった。1849年のゴールドラッシュは富を求める開拓者の数を急増させた(ただしトラッキー川の地域が開拓されるのは後の時代だった)。インディアンが最後にトラッキー川の地域を通過したのが何時かは分かっていないが、1850年代はその視認記録が残されている。
開拓者の誇りと傲慢の例として、ドナー隊の苦難はトラッキー地域で最も有名な歴史的事件である。1846年、イリノイ州を出発した開拓者の一団、当初はドナー・リード隊と呼ばれていたが現在ではドナー隊と呼ばれることの多いその集団が、行路で幾つかの事故やまずい決断の結果として、初秋に雪に閉じ込められた。伝統的なオレゴン・トレイルに比べて近道になるルートを何度か選択し、内部抗争もあり、ユタの塩湖平原を悲惨な状態で横切り、トラッキー川に近い峠を越えようとしたことで、全てが旅程の遅れに繋がった。最終的に季節には早い激しい吹雪に見舞われ、残っていた開拓者達は現在のドナー湖の縁で立ち止まらざるを得なくなった。そこはシエラネバダ山脈の花崗岩の頂部から約360m下であり、最終目的地のサクラメント近くサッター砦までは144kmの位置だった。ある時は残っていた荷車、牛および物資を運び、ある時はロープでそれらを引っ張り上げたが、凍るような気象条件と前人未踏の地であったために山脈を越えることが不可能と分かった。ドナー隊は意気阻喪し、物資も無くなってドナー湖の縁まで戻った。隊の一部は数マイル東のアルダー・クリーク宿営地にも戻った。その残酷な冬に向かっていく間に起こったことは飢えによって人肉食まで辿り着く悲惨な話となった。晩秋に15人の隊員が出来合いの雪靴でサッター砦に向かって出発したが、彼等も凍るような気象条件と道に不案内であったために遭難した。15人の中で7人のみが生き残り、6人は人肉食に供され、2人は行方知れずあるいは逃亡した。トラッキー川の宿営地に残っていた者達はリード隊に救われた。リード隊は、嫉妬による怒りからある男を殺した後、数か月前に隊から排除されていた結果としてドナー隊よりも先行していた。サッター砦にドナー隊の者が到着しないので、幾つかの救援隊を出発させた。当初87名いたドナー隊の中で、48名だけが生き残った。ドナー記念州立公園はこの開拓者達に献げられたものであり、ドナー湖東端にある。
鉄道開通
1869年、最初の大陸横断鉄道が開通し、トラッキーは鉄道町として成長した。この鉄道は現在もトラッキーの中心街を通り、シカゴからサンフランシスコに向かうアムトラックの旅客列車がここで停車している。
1886年、中国人との事業に関わるボイコットなど一連の運動の一部として、約1,400人の中国人居住者がトラッキーから追放された[5]。
1891年、トラッキーで著名な法執行者であるジェイコブ・ティーターが仲間の法執行者ジェイムズ・リードとの激しい銃撃戦で殺された[6]。
- ^ “Quickfacts.census.gov”. 2023年9月16日閲覧。
- ^ カリフォルニアの州法では市も町も明確な区別は無く、どちらを選んでもよい。2010年時点のカリフォルニア州には町が22、市が458ある。
- ^ “CA Codes (gov:34500-34504)”. California State Senate. 2009年8月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年1月29日閲覧。
- ^ Truckee Donner Historical Society, Inc [1]
- ^ Chinese Historical Society of Southern California Archived 2008年12月17日, at the Wayback Machine.
- ^ Truckee Donner Historical Society, Inc “アーカイブされたコピー”. 2010年12月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年10月10日閲覧。
- ^ US Gazetteer files: 2010, 2000, and 1990, United States Census Bureau, (2011-02-12) 2011年4月23日閲覧。
- ^ “Climatography of the United States NO.81”. National Oceanic and Atmospheric Administration. 2011年1月16日閲覧。
- ^ “Monthly Averages for Truckee, CA”. The Weather Channel. 2011年1月16日閲覧。
- ^ “Will Gerrymandered Districts Stem the Wave of Voter Unrest?”. Campaign Legal Center Blog. 2007年10月20日閲覧。
- 1 トラッキー (カリフォルニア州)とは
- 2 トラッキー (カリフォルニア州)の概要
- 3 地理
- 4 交通
- 5 参考文献
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