テトラルキア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/16 15:18 UTC 版)
四皇帝領
それぞれが管理する領土を分割する以上、当然ながら各々の領土の中心となる拠点も各地方領ごとに存在した。「唯一の都」としてローマ帝国の首都であったローマは、どの皇帝の拠点ともされなかった。広大化した帝国を効率的に治めることを目的としたテトラルキアにおいては、発祥の地である首都ローマよりも、それぞれの皇帝領を維持する上で有利な地理的条件のある土地が皇帝の拠点として選ばれた。ローマは「唯一の都」として別格の存在であり、独自の首都長官(praefectus urbis)の統治下に入ることとなった[3]。これは本土という概念においても同じで、イタリア本土も四皇帝領とは別格の存在として扱われた。
4人の宮廷と担当領域
- ニコメディア
- 東方正帝ディオクレティアヌスの都。現トルコ領イズミット。アナトリア北西にあった。バルカン方面やサーサーン朝ペルシアに対する防衛拠点であり、のちのコンスタンティノポリス(現トルコ領イスタンブール)とは異なる。318年のコンスタンティヌス1世による帝国再編に伴い、最大の脅威であるサーサーン朝に面するこの領域は重要性を増した。ディオクレティアヌスの担当領域はオリエンス道(praefectura praetorio Orientis, オリエンス行政区)で、ニコメディアはのちに東ローマ帝国の中核都市となった。
- シルミウム
- 東方副帝ガレリウスの都。現セルビア領スレムスカ・ミトロヴィツァ。ベオグラードを含むヴォイヴォディナ地方にあった。彼の担当は、バルカン半島とドナウ川流域のイリュリクム道(praefectura praetorio per Illyricum, イリュリクム行政区)であった。
- メディオラヌム
- 西方正帝マクシミアヌスの都。現イタリア領ミラノ。アルプス山脈近傍にあった。彼の担当領域イタリア道(praefectura praetorio Italiae, イタリア行政区)は、ヒスパニアとイタリア、アフリカであった。
- アウグスタ・トレウェロルム
- 西方副帝コンスタンティウス・クロルスの都。現ドイツ領トリーア。ローマから遠く離れた地にあった。この地は防衛戦略上重要なライン川境界に近く、かつてはガリア皇帝テトリクス1世が拠点としていたが、四半世紀を経てガリア道(praefectura praetorio Galliarum, ガリア行政区)となっていた。
これら4都市のほか、アドリア海に面した港町アクィレイア、スコットランドとアイルランドのケルト人勢力に接するイングランド北部のエボラクム(Eboracum, 現ヨーク)もまた、マクシミアヌスとコンスタンティウスにとって重要な防御拠点であった。
地方統治に関しては4人の皇帝に正確な領域区分は定められていなかった。テトラルキアはローマ帝国が4つに分裂したという状態を意味するものではない。4人の皇帝はおのおの勢力範囲を持っていたが、それは最高軍事指揮権を主としており、自身が出陣することも頻繁にあった。その間は各皇帝の近衛府長官や知事、総督を長とする官僚組織からなる行政府が執政を代行していた。西方では正帝マクシミアヌスはアドリア海と流砂の西方に位置する属州を管轄した。副帝コンスタンティウスはその領域内でガリアとブリタンニアを統括した。
東方では正帝ディオクレティアヌスと副帝ガレリウスの間に明確な権力区分はなく、柔軟に運用されていた。キリスト教徒の作家ラクタンティウスとアウレリウス・ウィクトル(約50年後の著述で信頼性は低い)をはじめとする幾人かの著述家は、4人の正副帝には確固たる勢力区分があったと述べているが、これはテトラルキアに対する理解が不十分であったためと思われる。
肖像
テトラルキア制の元に皇帝権は四分されつつも「統一された帝国」(patrimonium indivisum)という立場は守られ、四人の皇帝の肖像はこれ強調する形で用いられた。
四皇帝が並び立つ肖像では、必ず四人は同じ様な姿で作られた。同様にテトラルキア制の元で鋳造されたコインでも四皇帝は同じ姿で彫られていた。それらを見分ける為には近くに彫られている名前を見て判断する以外に方法が無かった。1204年に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)から略奪され、ヴェネツィアへ持ち込まれたテトラルキアの像は四名が全く同じ姿で描かれている。
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