スカンディナヴィアのキリスト教化 デンマーク

スカンディナヴィアのキリスト教化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/18 16:11 UTC 版)

デンマーク

十字架を運んでいる男性を描いている、スコーネ地方にあるヴァイキング時代の絵画石碑

スカンディナヴィアでの記録されている伝道活動は、今日のデンマークにおいて「フリジア人への使徒 (Apostle to the Frisians)」聖ウィリブロルドによって始められている。彼は700年頃に南ユトランドで唱道したが、わずかな成功しか収められなかった[11]。約1世紀後に、ランス大司教のエボ英語版が、823年の彼の逗留時に数名の男性に洗礼を施した。数年後、826年には、追放されたジュート人の王クラック・ハラルド英語版ルートヴィヒ1世(敬虔王)との同盟をなす条件として改宗を求められたことから、インゲルハイム・アム・ラインにおいて、ハラルドと家族と宮廷の人々とが洗礼を受けた。ハラルドがユトランドに戻ったため、ルートヴィヒ1世は、改宗者の中でキリスト教を監督するための修道士としてアンスガル英語版を任命し、ハラルドに追随させた[12]。アンスガルは、彼の仕事をスウェーデンにまで広げた、有能な宣教師であることを立証した[13]。それでも、キリスト教は主に表面的な影響しか与えておらず、そして大多数のジュート人デーン人は異教的 (en) なままであった[要出典]。831年にハンブルク司教区が置かれたが、翌832年にハンブルク大司教職 (en) に格上げされて、北方でのキリスト教に関する責任を割り当てられた。アンスガルはハンブルク大司教に任ぜられた。その後、司教が不在となったブレーメンでの活動を命ぜられたアンスガルは改めてデンマークでの布教を決意した。彼はデンマークのホーリヒ王英語版の改宗に成功し、王からシュレスヴィッヒ(後のヘーゼビュー)に教会を建てる許可を得た[13]。当時のシュレスヴィッヒは世界中から商人がやって来る貿易の中継地であり、そこにはハンブルクなどでキリスト教徒となった人々が多くいたことから、交易を盛んにするためにもデンマークにはキリスト教に配慮する必要があったのである[14]。シュレスヴィッヒとリーベンに、デンマークの最初の教会が建てられた。アンスガルの死後はリンベルトが大司教となった[15]。以後の世紀にわたって、キリスト教はデンマークにゆっくりと食い込んでいった。

半伝説的な王であるゴーム老王は、「確実に異教徒であった」と語られている[要出典]。しかし、彼の息子のハラルド青歯王(911年頃 - 986年頃)はキリスト教徒となった[16]。その理由はハラルドがザクセン公国オットー家に敗れたためである[17]。この頃に、デンマークの最初の司教区がシュレスヴィッヒ、リーベン、オーフスの3カ所に置かれた。イェリング墳墓群の石碑で、ハラルド青歯王は「デーン人をキリスト教徒とした」ことを誇りとしている[18]。しかし彼の息子、スヴェン双叉髭王が異教徒であって、ハラルド青歯王と対立して985年にこれを倒した[19]。スヴェン双叉髭王は、即位に際してキリスト教徒となったとも[20]ブレーメンのアダムが伝えるように西暦1000年のスヴォルドの海戦の後にキリスト教徒になったとも言われている。スヴェンはまた、ノルウェーでのキリスト教化を推し進めていったという[21]。11世紀初期、スヴェン双叉髭王の後を継いだクヌート大王もキリスト教徒であった。クヌートはイングランドからデンマークに戻ってきた際に、アングロ・サクソン人の司教や司祭を多数伴っていた。彼らはデンマークだけでなくノルウェーやアイスランド、スウェーデンなどに出向いて布教にあたった[22]シェラン島ロスキレに最初の司教座が置かれた。クヌート王が1035年に死んだ後、北海帝国が分裂に至った際は、ハンブルク・ブレーメン司教座のアーダルベルト英語版デンマーク国教会の独立を死守した。アーダルベルトはスヴェン2世エストリズセンと共に、当時9つになっていた司教座を組織し直した[23]。1103年から1104年の頃には、ハンブルク=ブレーメン大司教管区から独立したデンマークの大司教区が置かれた。当時はデンマーク領だったルンドのこの大司教区英語版が北欧全体の教会を管理した[17][23]


注釈

  1. ^ ほか、宗教史学者のヴァルター・ベトケ英語版によれば、北欧に限らずドイツなどでのゲルマン人のキリスト教化ではさまざまな強制的な方法が行われたが、その過程ではゲルマン人の宗教とキリスト教のそれぞれの要素が混合(シンクレティズム)することがあり、やがて「大規模なキリスト教のゲルマン化 (eine weitgehende Germanisierung des Christentums)」を引き起こしたという。 そうした中で、ゲルマンの宗教における主神オージンが備えていた「勝利の神、勝利の主」という要素がキリストに移行し、キリストが勝利の神と讃えられるかたちで、ゲルマンの宗教と共存しながらのキリストの神話化が進んだという[9]
  2. ^ スカルド詩においては、キリストはしばしば天使達を従えた「天の主」として言及される。そうした表現も、キリスト教が受容する側の文化に合わせて変化した「中世初期キリスト教のゲルマン化」によるものだという。9世紀古ザクセン語で書かれた叙事詩『ヘーリアント』では、キリストも東方の三博士も戦士や従者として語られている[10]
  3. ^ オーラヴ1世による改宗の強要の動機については、アイスランドのシーグルズル・ノルダルは異なった見解を述べている。オーラヴがノルウェー王になったのは西暦995年で、最後の審判が訪れると預言されている西暦1000年の直前である。オーラヴには、ノルウェー人達を異教から離し地獄からも逃れさせようという意図があったのではないか。オーラヴが預言を知っていたという史料はないものの、オーラヴは救いの教えだけではなく地獄や最後の審判についても人々に伝えていたかも知れず、だからこそアイスランドのスカルド詩人ハルフレズは死の間際に地獄への恐れを語り、またアイスランドの改宗を決めた1000年のアルシングにおいてヒャルティ・スケッギャソンらが世界の終わりが間近いことを告げた後にはその場の人々が動揺して反論ができなくなったのではないか、という[29]
  4. ^ ノルウェー史』の伝えるところでは、エイリークとスヴェインの政策によってノルウェーでのキリスト教信仰は退行していったとされる[32]。しかし、ブレーメンのアダムの伝えるところでは、デンマーク王のスヴェン双叉髭王がキリスト教徒となり、ノルウェーでのキリスト教の布教を推し進めたという。成川 (2009) の説明でも、キリスト教徒であるスヴェン双叉髭王がキリスト教徒となったことから、スヴェン双叉髭王から封土を与えられているエイリークらがノルウェーでキリスト教を排除しようとするとは考えにくいとしている。また、史料『ノルウェー古代列王史ノルウェー語版』では『ヘイムスクリングラ』と同様の説明となっている[21]
  5. ^ シーグルズル・ノルダルによれば、オーラヴ1世の死後にノルウェーで異教信仰が回復したのは、西暦1000年に起きるはずだった最後の審判が実際には起きなかったことから、それまで人々をキリスト教信仰に駆り立てていた恐れが失われたためであろうという。ところが、最後の審判の年が1033年に訂正されると、多くの人が聖地巡礼に向かった。そしてそのことが、1030年のスティクレスタズの戦い英語版で倒れたオーラヴ2世が殉教者として1年後に列聖され、その頃からノルウェーでの改宗も進んでいった要因となったというのである[29]
  6. ^ レイダング (leidang) はハーコン善王の時代に成立した防衛のための制度で、農民に対し、船の乗務や2ヵ月分の武器と食糧の提供を求めた[48]

出典

  1. ^ 山室 1982, pp. 76-77.
  2. ^ 梅田修 『地名で読むヨーロッパ』講談社〈講談社現代新書〉、2002年、199-200頁。ISBN 978-4-06-149592-0 
  3. ^ a b 熊野 1998, p. 52.
  4. ^ a b Schön(2004), p. 170.
  5. ^ Schön(2004), p. 172.
  6. ^ Schön(2004), p. 173.
  7. ^ Sanmark 2004: 15
  8. ^ Sanmark 2004: 97
  9. ^ 尾崎 2002, pp. 108-109.
  10. ^ 阪西 2004, p. 310.
  11. ^ 谷口 1998, pp. 47-48.
  12. ^ a b 谷口 1998, p. 48.
  13. ^ a b 谷口 1998, p. 49.
  14. ^ 谷口 1998, pp. 49-50.
  15. ^ 谷口 1998, p. 50.
  16. ^ 石川 2014
  17. ^ a b 熊野 1998, pp. 52-53.
  18. ^ 谷口 1998, pp. 50-51.
  19. ^ 谷口 1998, p. 51.
  20. ^ 石川 2014, p. 46(第8章 「青歯の」ハーラルと息子スヴェン)
  21. ^ a b 成川 2009, p. 95.(注釈122)
  22. ^ 石川 2014, p. 47(第9章 クヌーズの支配)
  23. ^ a b 谷口 1998, pp. 51-52.
  24. ^ 谷口 1998, p. 52.
  25. ^ a b 熊野 1998, p. 53.
  26. ^ 谷口 1998, pp. 52-53.
  27. ^ 谷口 1998, p. 53.
  28. ^ 谷口 1998, pp. 53-54.
  29. ^ a b ノルダル,菅原訳 1993, pp. 73-74.
  30. ^ ステーネシェン & リーベク 2005, pp. 27-28.
  31. ^ スノッリ,谷口訳 2009, p. 174.(第113章 さらにエイリーク・ハーコナルソン侯について)
  32. ^ 成川 2009, p. 81.(17章)
  33. ^ ステーネシェン & リーベク 2005 pp. 25-26.
  34. ^ ステーネシェン & リーベク 2005 pp. 27-28.
  35. ^ ステーネシェン & リーベク 2005, p. 28.
  36. ^ ステーネシェン & リーベク 2005, p. 29.
  37. ^ a b 谷口 1998, p. 61.
  38. ^ 山室 1982, pp. 17-18.
  39. ^ キリスト教化 Archived 2006年10月27日, at the Wayback Machine.、アイスランド議会のサイトより。(英語)
  40. ^ 谷口 1998, pp. 59-60.
  41. ^ 谷口 1998, pp. 60-61.
  42. ^ Kaufhold(2001), p. 85.
  43. ^ Kaufhold(2001), p. 86.
  44. ^ Kaufhold(2001), p. 6.
  45. ^ Lagerquist 1997:44
  46. ^ Kaufhold(2001), p. 117.
  47. ^ a b c Larsson 2002, 160
  48. ^ ステーネシェン & リーベク 2005, p. 23.
  49. ^ Larsson 2002, 161
  50. ^ 谷口 1998, p. 57.
  51. ^ Gutalagen (スウェーデン語)
  52. ^ 谷口 1998, p. 58.
  53. ^ 熊野 1998, p. 55.
  54. ^ 熊野 1998, pp. 56-57.
  55. ^ 熊野 & 村井 1998, pp. 136-137.





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