スカンディナヴィアのキリスト教化
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ゴットランド
ゴットランド地方法(1220年代からのゴットランドの法律の本)は、公式には1595年まで使用されており、しかし慣例として1645年まで使用されていたが、そこでは供犠は罰金によって処罰されるべきだと述べられていた[51]。
イェムトランド地方
スウェーデンのイェムトランド地方の中核であるフレースエー島に立っている、世界で最も北にあるルーン石碑であるフレーソのルーン石碑 (en) においては、エストマルズ (Austmaðr) と呼ばれる人物がその地域をキリスト教化した旨が記されている[52]。ルーン石碑が建立された1030年から1050年にかけての頃にいたエストマルズがどういった人物なのか不明だが、彼は、地方の民会であるJamtamótの民会の法官 (lawspeaker) であっただろうと信じられている。
フィンランド
考古学的な発見から判断するところでは、キリスト教は11世紀中にフィンランドでの地盤を獲得している[要出典]。フィンランドでのキリスト教化はスウェーデンからの支配の進行と同時に進んでいった。1155年または1157年にスウェーデン王エーリックが十字軍 (en) を謳ってフィンランドの南西部に侵攻した。間もなくウプサラ司教の聖ヘンリックがフィンランドの人々の洗礼にあたったが、彼は人々に反発されて暗殺された[54]。しかしキリスト教は、13世紀のビルイェル・ヤールによるフィンランド「十字軍」(en) で強固なものとなった。
最後の異教徒
18世紀(西暦1721年)に、新しいデンマークの植民地が、住民をキリスト教に転向させる目的と共にグリーンランドで始まった[要出典]。同じ時代の頃(17世紀 - 18世紀)に、サーミ人(ラップランド人)らもキリスト教(ルター派)化された。サーミ人は近隣地域の人々が改宗した後もずっと古来の信仰を守り続け、共通の文化を持つ緩やかなまとまりの集団を構成し、フィンランドを取り込んでいたスウェーデンや、デンマーク=ノルウェー、さらにロシアからも、長くその支配を免れていた。しかしキリスト教の受容は、サーミ人の民族的なまとまりを強化することなく、むしろ周辺の国々に分かれて所属していくきっかけとなった[55]。
注釈
- ^ ほか、宗教史学者のヴァルター・ベトケによれば、北欧に限らずドイツなどでのゲルマン人のキリスト教化ではさまざまな強制的な方法が行われたが、その過程ではゲルマン人の宗教とキリスト教のそれぞれの要素が混合(シンクレティズム)することがあり、やがて「大規模なキリスト教のゲルマン化 (eine weitgehende Germanisierung des Christentums)」を引き起こしたという。 そうした中で、ゲルマンの宗教における主神オージンが備えていた「勝利の神、勝利の主」という要素がキリストに移行し、キリストが勝利の神と讃えられるかたちで、ゲルマンの宗教と共存しながらのキリストの神話化が進んだという[9]。
- ^ スカルド詩においては、キリストはしばしば天使達を従えた「天の主」として言及される。そうした表現も、キリスト教が受容する側の文化に合わせて変化した「中世初期キリスト教のゲルマン化」によるものだという。9世紀に古ザクセン語で書かれた叙事詩『ヘーリアント』では、キリストも東方の三博士も戦士や従者として語られている[10]。
- ^ オーラヴ1世による改宗の強要の動機については、アイスランドのシーグルズル・ノルダルは異なった見解を述べている。オーラヴがノルウェー王になったのは西暦995年で、最後の審判が訪れると預言されている西暦1000年の直前である。オーラヴには、ノルウェー人達を異教から離し地獄からも逃れさせようという意図があったのではないか。オーラヴが預言を知っていたという史料はないものの、オーラヴは救いの教えだけではなく地獄や最後の審判についても人々に伝えていたかも知れず、だからこそアイスランドのスカルド詩人ハルフレズは死の間際に地獄への恐れを語り、またアイスランドの改宗を決めた1000年のアルシングにおいてヒャルティ・スケッギャソンらが世界の終わりが間近いことを告げた後にはその場の人々が動揺して反論ができなくなったのではないか、という[29]。
- ^ 『ノルウェー史』の伝えるところでは、エイリークとスヴェインの政策によってノルウェーでのキリスト教信仰は退行していったとされる[32]。しかし、ブレーメンのアダムの伝えるところでは、デンマーク王のスヴェン双叉髭王がキリスト教徒となり、ノルウェーでのキリスト教の布教を推し進めたという。成川 (2009) の説明でも、キリスト教徒であるスヴェン双叉髭王がキリスト教徒となったことから、スヴェン双叉髭王から封土を与えられているエイリークらがノルウェーでキリスト教を排除しようとするとは考えにくいとしている。また、史料『ノルウェー古代列王史』では『ヘイムスクリングラ』と同様の説明となっている[21]。
- ^ シーグルズル・ノルダルによれば、オーラヴ1世の死後にノルウェーで異教信仰が回復したのは、西暦1000年に起きるはずだった最後の審判が実際には起きなかったことから、それまで人々をキリスト教信仰に駆り立てていた恐れが失われたためであろうという。ところが、最後の審判の年が1033年に訂正されると、多くの人が聖地巡礼に向かった。そしてそのことが、1030年のスティクレスタズの戦いで倒れたオーラヴ2世が殉教者として1年後に列聖され、その頃からノルウェーでの改宗も進んでいった要因となったというのである[29]。
- ^ レイダング (leidang) はハーコン善王の時代に成立した防衛のための制度で、農民に対し、船の乗務や2ヵ月分の武器と食糧の提供を求めた[48]。
出典
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- ^ 谷口 1998, p. 51.
- ^ 石川 2014, p. 46(第8章 「青歯の」ハーラルと息子スヴェン)
- ^ a b 成川 2009, p. 95.(注釈122)
- ^ 石川 2014, p. 47(第9章 クヌーズの支配)
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