ケイリー・ハミルトンの定理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/18 02:35 UTC 版)
抽象化・一般化
上で述べた通り、定理の主張における行列 p(A) は、先に行列式を評価してからその後で行列 A を変数 t に代入して得るものであり、行列式を計算する前に行列 tIn − A に代入を行うことは意味をなさない。にも拘らず、p(A) をある特定の行列式の値として直截に得ることのできる解釈を与えることは可能である。
ただしこれには、環上の行列 A とはその成分 aij のことともそれらの全体としての A そのものとも解釈できるというような、やや面倒な状況を設定する必要がある。すなわち、環 R 上の n次正方行列全体の成す環 M(n, R) の中で、成分 aij はスカラー行列 aijIn として実現されるし、A それ自体も入っている。しかし行列を成分とする行列は、ここでの意図でない区分行列との混同を引き起こしかねない(区分行列と考えると行列式の概念が正しく与えられない[注 6])。状況をよりはっきりさせるため、基底 e1, …, en を持つ n次元ベクトル空間(係数環 R が体でないときは n階 R-自由加群)V 上の自己準同型 φ を行列 A と区別をつけて、全自己準同型環 V 上の行列を考えることにする。そうすると、各 φ ∈ End(V) は行列の成分になれるし、その一方で行列 A とは各 (i, j)成分がスカラー aij倍するという自己準同型になっているような M(n, End(V)) の元を指すものとできる(同様に単位行列 In も M(n, End(V)) の元と解釈される)。
ただし、End(V) は可換環ではないから、M(n, End(V)) の全体で定義される行列式は存在せず、End(V) の可換部分環上の行列に限った場合にだけ行列式が定義できることには注意しなければならない。今、問題の行列 φIn − A の成分はすべて、φ と恒等変換で R 上生成される可換部分環 R[φ] に属しているから、行列式をとる写像 det: M(n, R[φ]) → R[φ] は定義されて、det(φIn − A) を A の固有多項式を φ において評価した値とすることができる(このことは A と φ との間に成り立つ関係とは無関係に成り立つ)。
この設定で、ケイリー・ハミルトンの定理の主張は p(φ) が零写像となることである。この設定での定理の証明を以下に示す(これは(中山の補題と関連した)より一般の形で (Atiyah & MacDonald 1969, Prop. 2.4) にあるものである):
行列 A = (aij) が基底 e1, …, en に関する φ の表現行列であるとは
と書けることであった。これらを行列のベクトルへの左乗 M(n, End(V)) × Vn → Vn の形に書いて Vn における一つの等式の n 個の成分と解釈することができる(行列のベクトルへの積は、個々の成分が ψ ∈ End(V) および v ∈ V の間では ψ(v) という形で「掛け合わされる」ということを除けば通常通りに定義できる)。そうして、上記は一つの等式
の形にまとめられる。ここに、E ∈ Vn は第i成分が ei となる元(というより、V の基底ベクトル e1, …, en をこの順で列ベクトルにもつ行列)で、右肩の tr は行列の転置。整理すれば
の形に書ける。左辺に現れた行列は φIn − A の転置と理解すれば、この行列の(M(n, R[φ]) の元としての)行列式もまた p(φ) に等しい。さてこの等式から p(φ) = 0 ∈ End(V) を導くためには、φIn − Atr の(行列環 M(n, R[φ]) における)余因子行列の転置 (adjugate matrix) を左から掛ければよい。これは
と計算できる。最初の等号は行列同士および行列とベクトルとの積の結合性によるが、この性質は行列やベクトルの成分がどのようなものであるかとは無関係に、これら積が持つ純形式的な性質である。さて、この等式の第 i成分をみれば、p(φ)(ei) = 0 ∈ V が成り立つことが分かるから、p(φ) は全ての ei で—したがってそれらの生成する V 全体で—消えていることになる。それはすなわち p(φ) = 0 ∈ End(V) であることに他ならないから、これで証明は完成する。
この証明を検討すれば、固有多項式をとる行列 A は、多項式に代入する値としての φ と同一である必要がないことが分かる。すなわち V 上の自己準同型 φ は、最初に与えた等式 φ(ei) = ∑
j aji⋅ej を、何らかの元の列 e1, …, en に対して満足すればよい(これらの元の生成する空間を改めて V と書けば上記の証明を追うことができる)。この元の列には基底のような独立性は仮定しないでよいから、生成される空間の次元は n よりも小さくなり得るし、係数環が体でないときは自由加群でない場合も出てくる。
そうして R を生成系 {e1, …, en} を持つ任意の可換環とし、R の自己準同型 φ の上記生成系に関する表現行列が A = (aij), すなわち
を満たすものとする設定の下でのケイリー・ハミルトンの定理:pφ(φ) = 0 が満足されることが正当化できる。
このように一般化された状況におけるこの定理は可換環論および代数幾何学において重要な中山の補題の源流である。
注釈
- ^ 四元数の乗法およびそれを用いた任意の構成(この文脈では特に行列式が顕著)には非可換性がかかわってくるから、十分に定義を検討する必要がある。分解型四元数に対するケイリー・ハミルトンの定理も(やや素性はよくないが)同様に成立する[11]。四元数の場合も分解型四元数の場合も、ある種の複素2次行列として表すことができる(ノルム 1 に制限すれば、これらの乗法の定める作用はそれぞれ特殊ユニタリ群 SU(2) および SU(1, 1) である)から、これらに対して定理が成り立つことは驚くことではない。そのような行列表現のできない八元数(八元数の乗法は非結合的であるから行列の積で表現することは不合理)でさえ、それでも修正版のケイリー・ハミルトンの定理が満足される[12]
- ^ 「天然(の)」という意味ではなく、permutation(置換)と determinant(行列式)を合成したカバン語のモジり。直訳的に合成すれば「置換式」。(テンソルの交代積に対する対称積のように、置換の符号を掛ける部分を取り除いて)行列式の反対称性を対称性で置き換えた対応物なので「対称的行列式」のように呼べるかもしれない。
- ^ これら係数の陽な表示は
l=1 l⋅kl = n − i を満たす分割 {kl ≥ 0} 全体の成す集合上を亙る - ^ 例えば(ヤコビの公式を解いている)(Brown 1994, p. 54) などを見よ:
- が導かれる(例えば Gantmacher 1960, p. 88 を見よ)。 が再帰の終端となる。あとで述べる代数的証明では、件の随伴行列 Bk ≡ Mn−k の満たす性質に依拠している。具体的には および上記の p の微分を追跡すれば を得[16]、上記の再帰手続きが順に繰り返される。
- ^ a b c d (佐武 1958, p. 137, 注意)によれば、「行列係数の多項式に関して乗法の交換の法則は一般には成立しないが、それ以外(加減乗の演算に関する限り)通常の多項式と全く同様に取り扱うことができる.また行列係数の多項式の間の等式には,それら係数行列のすべてと交換可能な行列を代入することができる.(係数行列と非可換な行列は代入することができない.)行列係数の多項式に関して整除の問題は複雑である」とある。
- ^ 行列式は行列の成分たちの積和であることを思い出そう。したがって、R 上の行列を成分に持つ行列の行列式はそれ自体が R 上の一つの行列である(係数環 R の元ではない)。つまり、区分行列の各ブロックをそれ自体一つの行列と見て、区分行列を行列の行列と考えるなら、その行列式はブロックたちの積和の形をしていなければならない。その一方、R上の区分行列の成分は(ブロックではなくその中の)係数環 R の元自体であり、したがって区分行列の行列式はそれ自身もまた R の元であって、両者の概念は一般には一致しない。
出典
- ^ a b Crilly 1998.
- ^ a b Cayley 1858, pp. 17–37.
- ^ Cayley 1889, pp. 475–496.
- ^ a b Hamilton 1864a.
- ^ a b Hamilton 1864b.
- ^ a b Hamilton 1862.
- ^ Eisenbud 1995, p. 120, Theorem 4.3 (Cayley-Hamilton).
- ^ Atiyah & MacDonald 1969.
- ^ Hamilton 1853, p. 562.
- ^ Zhang 1997.
- ^ Alagös, Oral & Yüce 2012.
- ^ Tian 2000.
- ^ a b Frobenius 1878.
- ^ Garrett 2007, p. 381.
- ^ 佐武 1958, p. 137, 注—「なお fA(A) = |AE − A| = 0 で証明終!と早合点してはいけない.」
- ^ Hou 1998.
- ^ Zeni & Rodrigues 1992.
- ^ Barut, Zeni & Laufer 1994a.
- ^ Barut, Zeni & Laufer 1994b.
- ^ Laufer 1997.
- ^ Curtright, Fairlie & Zachos 2014.
- ^ Stein, William (PDF). Algebraic Number Theory, a Computational Approach. p. 29
- ^ 斎藤正彦『線型代数演習』東京大学出版会〈基礎数学4〉、1985年3月25日、27,88頁。ISBN 978-4130620253。
- ^ a b 斎藤正彦『線型代数入門』東京大学出版会〈基礎数学1〉、1966年3月31日。ISBN 978-4130620017。
固有名詞の分類
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