クビライ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/16 05:03 UTC 版)
日本語による表記
古くから日本では漢語表記である忽必烈が用いられていたが、そのひらがなおよびカタカナ表記については統一が見られない。
1886年(明治19年)8月に出版された『通俗義経再興記』[20]に忽必烈の記述があるが、ここではくぷひつれつとのふりがなが振られている。同年12月に出版された『朝日之旗風 : 改良小説』[21]にも忽必烈の記述があるが、ここでのふりがなはこつぴつれつである。これらは「忽」「必」「烈」各々の音読みから派生したものと考えられる。
1902年(明治35年)11月に当時の文部省が出版した『外国地名及人名取調一覧』[22]には、Kublai(Khubilai)の日本語訳としてフビライ[忽必烈]と記載されているが、同年12月に出版された『日本歴史教科書 下』[23]にはクビライと記載されており、この時点で既にカタカナ表記に揺れが生じていることがわかる。
1912年(明治45年)年に出版された『まるこぽろ紀行』[24] は、いわゆるマルコ・ポーロによる『東方見聞録』の日本語訳本であるが、ここでは忽必烈のフリガナがクブライと記述されており、これは日本語訳の原本とした英訳本に記載のKublaiをカタカナ読みしたものであると考えられる。
ちなみに、1874年(明治7年)に訳本として出版された『北支那戦争記 : 千八百六十年』[25]においては、漢字による忽必烈の記載はなく、「蒙古ノ大王クブライカン」との記述があり、これも原本の英語表記であるKublaiをカタカナ読みしたものと考えられる。
1902年(明治35年)に文部省がフビライ[忽必烈]を正としたことから、学校教育で使用される教科書においては長きに渡ってフビライが採用されてきたが、その他の出版物ではクビライの使用が見られ、フビライに統一されることはなかった。例えば、1928年(昭和3年)に出版された『時と歩む世界歴史』[26]には、「忽必烈はクビライともフビライとも云われて居るが」、との記載がある。
2020年代までは日本の教科書ではフビライの単独表記もしくはフビライ(クビライ)の並列表記がほとんどであり、クビライの単独表記はほとんど見られなかったが、2023年度以降版の高校世界史探究教科書のうち、山川出版社『詳説世界史』『高校世界史』『新世界史』[27]や帝国書院『新詳世界史探究』[28]などにはクビライの単独表記が見られるようになっている。ただし、同じ帝国書院の2022年度以降版高校歴史総合教科書である『明解歴史総合』[29]ではフビライの単独表記になっているなど、同じ出版社であっても著作者の違いによって表記が異なる場合が見られる。
- ^ モンゴル語で「賢きカアン」を意味する。
- ^ 『フビライ』 - コトバンク
- ^ モンゴル語ではダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス (Dai-ön Yeke Mongγol Ulus) すなわち「大元大蒙古国」と称したもの。『元史』世祖本紀巻七 至元八年十一月乙亥(1271年12月18日)条にある詔に、「可建國號曰大元、蓋取易經「乾元」之義。」とある。これは『易経』巻一 乾 に「彖曰、大哉乾元、萬物資始。」とある文言に基づいていた。
- ^ 吉川幸次郎「元の諸帝の文学(一) : 元史叢説の一」『東洋史研究』8-3, 1943年8月、pp.169-181
- ^ 宮紀子「序章」『モンゴル時代の出版文化』2006年、pp.8-9
- ^ コンギラト部族首長家アルチ・ノヤン家の子女。当主アルチ・ノヤンの娘で、姉妹にはジョチの正妃でバトゥの生母オキ・フジンらがいる。
- ^ コンギラト部族首長家アルチ・ノヤン家の子女。1281年、チャブイが逝去した後、クビライの希望によりチャブイの後任として皇后に迎えられ右大オルドを引き継いだ。『集史』コンギラト部族志によればアルチ・ノヤンの息子ナチンの娘としているが、『元史』巻百十四 后妃列伝 南必皇后条によると、ナチンの孫である仙童(オラチンの息子)の娘としている。
- ^ 泰定帝イェスン・テムルの妃となっていたが、泰定三年(1326年)にクビライのオルドを守るよう詔を受けた。
- ^ 『集史』での表記は تورجى Tūrjī ないし دورجى Dūrjī。クビライの長子で、チャブイ皇后との間に儲けた四人の息子たちの長男。『集史』によると、イルハン朝のアバカの治世(1265年 - 1282年)まで存命だったらしい。
- ^ 『集史』での表記は قوريداى Qūrīdāy。生母はメルキト部族の首長トクトア・ベキの兄弟クトゥの娘だったトゥルキジン・ハトゥン。
- ^ 『集史』での表記は هوكاچى Hūkāchī。生母はドルベン部族出身のドルベジン・ハトゥン。七男アウルクチの同母兄。
- ^ 『集史』での表記は اوغروقچى Ūghrūqchī。生母はドルベン部族出身のドルベジン・ハトゥン。七男フゲチの同母弟。
- ^ 『集史』での表記は اَباچى Ābāchī または اَياچى Āyāchī。生母はチンギス・カンに仕えたフーシン部族出身の功臣ボロクルの娘、フウシジン・ハトゥン。同母弟に九男ココチュがいる。高麗国王忠烈王に降嫁したクトゥルク=ケルミシュもクビライと彼らの生母フウシジンとの娘ではないかと推測されている。
- ^ 『集史』での表記は كوكچو Kūkuchū。生母はフウシジン・ハトゥン。八男アバチ(アヤチ)は同母兄。1271年、異母兄ノムガンが中央アジアのカイドゥの鎮圧のため幕僚の右丞相アントンとモンケ家、アリクブケ家などの諸王族とともに派遣されアルマリクに駐営した際に、ノムガンに随行した。しかし、1276年にモンケ家のシリギを中核とする他のトルイ家の王族たちが反乱を起こし(いわゆる「シリギの乱」)、ココチュは捕縛され西方の有力王族たちの協力を欲したシリギらにより人質としてカイドゥのもとに連行された。しかし、カイドゥやジョチ・ウルスはシリギ一統の要請を拒絶し、クビライが南宋戦線からバヤンを派遣して乱を鎮圧すると、ココチュもクビライのもとへ送還された。
- ^ 『集史』での表記は قوتلوقتيمور Qūtlūq-Tīmūr。生母不詳。アリクブケとの皇位継承戦争中に誕生し、20歳で亡くなったという。
- ^ 『集史』での表記は توقان Tūqān。生母はバヤウト部族出身のバヤウチン・ハトゥン。1285年にチャンパ王国遠征のために南方へ派遣される。しかし、途中通過したベトナムの大越陳朝で兵糧などを過剰に徴発したため陳朝の反乱を招き、暑熱と激しい抵抗に苦しんだ。最終的に陳朝の再度の服属は得たが、諸将の戦死など派遣軍の激しい損耗を招いたことをクビライに咎められ、蟄居を命じられたと伝えられる。
- ^ 生母は第二オルドのナンブイ皇后。
- ^ 森平雅彦 2008.
- ^ 斉国大長公主。『元史』巻109・諸公主表では「斉国大長公主忽都魯堅迷失」とある。後の荘穆王后。『高麗史』巻89・后妃伝巻2によると、皇帝クビライと阿速真可敦という皇后との娘。生母である阿速真可敦については、現在『集史』クビライ・カアン紀に記載されているクビライの第8皇子アヤチ(アバチ)と第9皇子ココチュの生母であったフーシン部族のボロクル(ムカリ国王をはじめとするいわゆる「チンギス・カンの四駿 (Dörben Külü'üd)」のひとり)の娘、フウシジン皇后 Hūshījīn Khātūn との比定が試みられているが、確定には至っていない[18]
- ^ 清水市次郎『通俗義経再興記』文苑閣、1886年8月。NDLJP:881620。
- ^ 日置季武 (鶴城散士)『朝日之旗風 : 改良小説』岡本仙助、1886年12月。NDLJP:885293。
- ^ 文部省『外国地名及人名取調一覧』杉山辰之助、1902年11月。NDLJP:760999。
- ^ 棚橋一郎, 稲葉常楠『日本歴史教科書 下』田沼書店、1902年12月。NDLJP:771391。
- ^ 『まるこぽろ紀行』瓜生寅訳補、博文館、1912年4月23日。NDLJP:761741。
- ^ ゼームス・スウィンホー 著、箕作麟祥等 訳『北支那戦争記 : 千八百六十年』1874年。NDLJP:774670。
- ^ 山崎笛郎『時と歩む世界歴史』ヨコモジ社、1928年。NDLJP:1055653。
- ^ “世界史探究 - 新刊教科書のご案内”. 山川出版社. 2023年2月25日閲覧。
- ^ “新詳 世界史探究|帝国書院 高等学校新課程情報サイト”. 帝国書院. 2023年2月25日閲覧。
- ^ “明解 歴史総合|帝国書院 高等学校新課程情報サイト”. 帝国書院. 2023年2月25日閲覧。
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