イエメンのイスラム教 歴史

イエメンのイスラム教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 09:35 UTC 版)

歴史

ムハンマドが存命中にアリーがイスラム教を布教した630年ごろにさかのぼる。ジャナド(タイーズ付近)のモスクサナアの大モスクが建設されたのはこの時期のことであった。なかんずく山間部に位置するサナアは布教の中心地として栄えることとなる[1]

9世紀に入るとザイド派イマーム導師)が支配するようになるが[2]16世紀には北部がオスマン帝国の支配下に入る[2]。この間、1454年宗教学者のザブハニーがコーヒーの飲用を初めて一般公開、メッカを中心にコーヒーがイスラム世界に瞬く間に広がってゆく[3]

1918年にオスマン帝国が崩壊すると、北イエメンはイマームを国王とするイエメン王国が成立[1]1962年には軍事クーデターが発生しイエメン・アラブ共和国と名を改めるものの、追放された国王派との間で内戦が8年間続く[1]。一方南イエメンは1970年社会主義国家イエメン民主人民共和国が誕生したことで、イデオロギー上の対立から1972年及び1979年に北イエメンとの紛争が勃発した[1]

冷戦崩壊間際の1990年5月に南北イエメンが統一を果たし[1]、ザイド派の少数派に属するサーレハ家から、アリー・アブドッラー・サーレハがイエメン共和国初代大統領に就くこととなる[4]

イエメン共和国成立を経てもなお不穏な状況は変わらず、2011年に入りサーレハ大統領の退陣を求める反政府デモが発生(アラブの春)、10月26日にはデモ弾圧に抗議すべく、女性数1000人が伝統衣装のスカーフベールを大量に焼却[5]。保守的なイスラム教政治が続いているため、女性は伝統的に社会的地位が低く、この種の抗議活動は初めて[5]CNN報道では、ベール焼却などの行動は女性への弾圧が増加していることも背景にあるとされ、デモ参加者の証言によると10月のみで女性60人以上が攻撃を受けたという[5]

また2014年1月31日には北部のアムラン州でザイド派の反政府民兵と地元のハシド族とが大規模な軍事衝突を展開、60人が死亡した[6]。連邦制が将来導入されるのを受け、ザイド派が北部で勢力拡大を図ったためと見られる[6]







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