イェヴヘーン・コノヴァーレツ イェヴヘーン・コノヴァーレツの概要

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > イェヴヘーン・コノヴァーレツの解説 > イェヴヘーン・コノヴァーレツの概要 

イェヴヘーン・コノヴァーレツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/22 15:43 UTC 版)

イェヴヘーン・コノヴァーレツ
Євге́н Конова́лець
ウクライナ民族主義者組織指導者
任期
1929年2月3日 (1929-02-03) – 1938年5月23日 (1938-5-23)
後任者アンドリイ・アタナソヴィチ・メルヌィクウクライナ語版
ウクライナ軍事組織指導者
任期
1920年8月3日 (1920-08-03) – 1929年2月3日 (1929-2-3)
個人情報
生誕Євге́н Миха́йлович Конова́лець
(1891-06-14) 1891年6月14日
オーストリア=ハンガリー帝国ザシキウウクライナ語版
死没1938年5月23日(1938-05-23)(46歳)
オランダロッテルダム
国籍ウクライナ
受賞
兵役経験
所属国オーストリア=ハンガリー帝国
ウクライナ人民共和国
所属組織ウクライナ人民共和国軍
軍歴1914 - 1915
1917 - 1919
最終階級大佐
部隊リヴィウ地区防衛部隊
シーチ銃兵隊
指揮シーチ銃兵隊
戦闘第一次世界大戦
キエフ1月蜂起
ソヴィエト・ウクライナ戦争

1938年5月、ソ連内務人民委員部の秘密諜報員、パーヴェル・スドプラートフ(Павел Судоплатов)の手で暗殺された。

生い立ち

オーストリア=ハンガリー帝国領、ハリチナ・ヴォロディミル王国(現在のウクライナリヴィウ州ザシキウウクライナ語版)の村に生まれた。父親のミハイロは地元の公立学校の教員であった[1]。一家にはイェヴヘーンのほかに二人の兄弟(ミロンとスチェパン)がいた[2]。地元の民俗学校で二年[3]、その後、教員神学校にて4年間学び、初等教育を終えた。1909年、国立リヴィウ工科大学付属学術高等学校を卒業後、リヴィウ大学法学部に入学した[4]。イェヴヘーンは学生時代から社会活動や政治活動に積極的に関わるようになる。1909年1913年に開催された学生会議では委員の一人であった。1912年、コノヴァーレツは組織団体「プロスウィタ」(Просвіта, 「啓蒙」「教育」)のリヴィウ支部の書記になった。1913年、学生連盟の中央委員に選出され、国家民主部門の委員となり、雑誌にも記事を寄稿するようになる。その後まもなく、ウクライナ国民民主党ウクライナ語版に入党した。1913年、ウクライナの統一と主権国家としての独立を目指す政治団体『ウクライナ解放同盟ロシア語版』の初代指導者、ドミートロ・イワーノヴィチ・ドンツォフウクライナ語版と出会った[5]。ドンツォフの著書は、ウクライナの民族主義英語版の政治思想に大きな影響を与えた[6]

銃兵隊結成とウクライナ内戦

1912年、コノヴァーレツはオーストリア=ハンガリー帝国軍ウクライナ語版に召集され、一年間の兵役に就いた[6]1914年8月2日第一次世界大戦が勃発すると、コノヴァーレツはオーストリア=ハンガリー帝国軍リヴィウ地区防衛部隊第19連隊に配属となった。リヴィウ大学に在学中の身であったが、戦争が勃発したことにより、学業を中断せざるを得なくなった[6]1915年マキフカ山での戦いロシア語版で捕虜となったコノヴァーレツはチョルヌイ・ヤルロシア語版の収容所に収監され、1916年末以降はツァーリツィン(のちの「ヴォルゴグラード」。1925年までは「ツァーリツィン」と呼ばれていた)にある収容所に収監された。二月革命ののち、コノヴァーレツは仲間のウクライナ人とともに宣伝活動に従事した。 伝えられるところでは、コノヴァーレツはロシア軍の部隊の駐屯地近くにいたウクライナ兵とともに宣伝活動に関与していたという[7]。1917年9月、コノヴァーレツは収容所を出たのち、キエフに到着し、ロマン・イワーノヴィチ・ダシュケーヴィチウクライナ語版アンドリイ・アタナソヴィチ・メルヌィクウクライナ語版イワン・チュモラウクライナ語版ロマン・キリロヴィチ・スシュコウクライナ語版ヴァスィール・ヴァスィーリヨヴィチ・クチャープスキーウクライナ語版ミハイロ・フェドロヴィチ・マチャックウクライナ語版フェディル・チェルニックウクライナ語版とともにシーチ銃兵隊(Січові́ Стрільці́)を結成した。1917年11月13日ウクライナ中央評議会(Українська Центральна Рада)がキエフにて権力を掌握した。1917年11月20日、中央評議会はウクライナ人民共和国の樹立を宣言し、1918年1月22日には、独立した主権国家である趣旨が宣言された。この時点で、コノヴァーレツはシーチ銃兵隊を率いる司令官となっていた。

1918年1月26日、ロシア軍がキエフを占領した[8]1918年1月29日キエフにて暴動が勃発すると(ロシアのボリシェヴィキが兵器工場の従業員を扇動し、組織した)、セモン・ペトリューラ(Семен Петлюра)が司令官となった第三ハイダマツキー歩兵連隊はこれを徹底的に鎮圧し、市街戦でも戦った。1918年3月1日から3月2日にかけて、銃兵隊はザポリージャ(Запоріжжя)の部隊やハイダマツキー歩兵連隊と協力して戦い、キエフからボリシェヴィキを追い出した[9]。1918年3月、ドイツの占領軍がウクライナに入ったのち、シーチ銃兵隊は政府庁舎の警護と首都の治安維持を任された。1918年3月10日、軍事部隊のクリンロシア語版は、ウクライナ人民共和国軍の中で戦闘態勢が最も整った部隊の1つと考えられていたシーチ銃兵連隊に配属となった。1918年3月29日、ウクライナでクーデターが起こった。占領軍の支援を受けて、パブロ・ペトローヴィチ・スコロパツキー(Павло Петрович Скоропадський)が権力を握ると、ドイツ軍の司令官からの要請により、シーチ銃兵隊は1918年5月1日に武装解除、解散となった。市内に滞在していたコノヴァーレツは、数人の上級将校とともに、新たな銃兵部隊の創設に向けて準備した。1918年8月23日、コノヴァーレツは、ビーラ・ツェールクヴァ(Бі́ла Це́ркваа)に拠点を置くシーチ銃兵隊の別働隊(最大兵数900名)を結成する許可を、スコロパツキーから得た[10]。創設部隊の司令部は、しばらくはスコロパツキーに対して忠誠を示していた。1918年5月、ウクライナ国民国家連合ロシア語版が結成された。ウクライナ国民国家連合の構成員たちは、スコロパツキーに反対し、敵対する立場にあった。コノヴァーレツはスコロパツキーに対し、ドミートロ・イワーノヴィチ・ドロシェンコウクライナ語版を通して、ロシアとの連邦協定締結は容認できない趣旨を強調した。

イェヴヘーン・コノヴァーレツ

1918年10月18日イェヴヘーン・オメリャーノヴィチ・ペトルーシェヴィチウクライナ語版を議長とするウクライナ国民評議会がリヴィウで設立され、西ウクライナ人民共和国(Західноукраїнська Народна Республіка)の樹立が宣言された[1]

1918年11月14日、パブロ・スコロパツキーが親ロシア政策の実施およびウクライナ国家の独立を放棄する趣旨を宣言すると、シーチ銃兵隊はスコロパツキーに対する蜂起を決行したウクライナ語版11月15日、ウクライナ人民共和国の最高機関(ディレクトーリヤ, Директорія)がスコロパツキーに反対する趣旨の小冊子がキエフの民家の壁に貼られ、蜂起の呼びかけが行われた。スコロパツキーの軍隊とディレクトーリヤの戦闘は11月16日に始まった。コノヴァーレツが司令官となったシーチ銃兵隊は、モトヴィリウカウクライナ語版での戦闘でスコロパツキーの軍隊を打ち破った。ウクライナに駐留するドイツ軍の司令部はディレクトリーヤに対し、首都への進入は許可しない趣旨を通告した。1918年11月18日ザポリージャの軍隊はハルキウ(Харків)を占領し、権力を確立した。1918年12月11日、ディレクトリーヤの軍隊がオデッサ(Одеса)を占領した。1918年12月中旬までに、キエフを除いて、あらゆる場所で首長の権限は喪失した。ドイツ軍司令部は、スコロパツキーがウクライナ国民からの支持を得られていない状況を確認した。1918年12月14日、スコロパツキーは退位を表明し、ドイツ軍に保護された状態でドイツへ向けて出発した。12月15日、ウクライナ人民共和国の軍隊がキエフに入った。12月19日、ディレクトリーヤの軍隊による閲兵式が行われた。ディレクトリーヤは、首長の権限の下で発行されたすべての法律と命令を取り消し、ウクライナの独立を破壊しようとしたかつてのロシア帝国軍を権力の座から追放した。ウクライナ軍からは、反ウクライナ分子が排除された。しかし、ウクライナ人民共和国政府には、ロシアからの独立を維持するだけの十分な力が足りていなかった。

1918年11月から12月にかけてのキエフでの戦闘において、シーチ銃兵隊の独立連隊は師団に配備され、12月3日には包囲軍団に配備された。1918年12月19日ヴォロディミル・キリロヴィチ・ヴィニチェンコウクライナ語版とセモン・ペトリューラ率いるウクライナ人民共和国政府が権力を掌握した。この日、政府の布告により、コノヴァーレツはウクライナ・コサック部隊の隊長に昇進した[1][11]。コノヴァーレツは、ウクライナ人民共和国軍の強化に積極的に尽力した。1918年から1919年にかけて、ボリシェヴィキの軍隊およびアントン・ディナイキン率いる軍隊との戦闘に参加し、師団、軍団、シーチ銃兵隊の司令官を務めた。1919年12月6日、ウクライナ人民共和国は正規軍の解散を決定し、これに関連する形で、コノヴァーレツは自身の部隊の解散を発表した。

シーチ銃兵隊員の一人、オスィップ・オレクスィーヨヴィチ・ドゥミンウクライナ語版は、「キエフの戦いでは、シーチ銃兵隊は政府と中央評議会の委員だけでなく、ウクライナ国家そのものの命も救った」と語っている[5]

1919年末、コノヴァーレツはポーランド軍に捕らえられ[1][12]ルーツク(Луцьк)にある捕虜収容所に収監された[5]1920年の春に収容所から釈放されたのち、コノヴァーレツはプラハに移住した。

コノヴァーレツは、「敵の刑務所に入れられようが、追放されようが、ウクライナ国民の独立への意志は打ち砕かれることは無い。ウクライナは、英雄と闘士たちで構成された難攻不落の砦なのだ」と演説し、ウクライナ人を鼓舞した[13]


  1. ^ a b c d e f g h i j k l m В. К. БЫЛИНИН, В. И. КОРОТАЕВ. “В. К. Былинин, В. И. Коротаев портрет лидера оун в интерьере иностранных разведок”. Refdb. 2018年10月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月27日閲覧。
  2. ^ Кучерук О. С. Евген Коновалець: 1891—1938. К., 2008. С. 2.
  3. ^ Коновальця // Свобода. — 1938. — 1 июня. — С. 2.” (PDF). Свобода. 2016年4月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月27日閲覧。
  4. ^ Gymnasium Education of Yevhen Konovalets Іван Хома, 2017, doi:10.23939/hcs2017.04.087
  5. ^ a b c d e f g h i Вячесла́в Бори́сович Румя́нцев. “Коновалец Евген”. ХРОНОС. 2023年7月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月28日閲覧。
  6. ^ a b c d ВІКТОР ГУМЕНЮК. “ЄВГЕН КОНОВАЛЕЦЬ, ЯК СИМВОЛ НАЦІЇ”. 2005年12月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月1日閲覧。
  7. ^ Jary R. Ewhen Konowaletz // Ukrainischer Nationalismus. New York: Ukr. press service, 1939. S. 4.
  8. ^ Войцеховский А.А., Ткаченко Г.С.. “Октябрьская революция на Украине и крах украинского буржуазного национализма”. История национального движения Украины 1800-1920ые годы.. 2014年12月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月28日閲覧。
  9. ^ У Боярці відкрили барельєф полковнику Коновальцеві. ФОТО, ВІДЕО”. Історична Правда (2017年6月2日). 2018年7月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月27日閲覧。
  10. ^ Іван Хома. “Окремий загін Січових Стрільців і Листопадовий зрив 1918 р. у Львові” (PDF). Львівська політехніка. 2020年7月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月27日閲覧。
  11. ^ РГВА. Ф. 271k, Оп. 1, Д. 166, Л. 82.
  12. ^ Konovalets, Yevhen”. Encyclopedia of Ukraine. 2006年11月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月27日閲覧。
  13. ^ Волі українського народу до самостійного життя не знищать ні ворожі тюрми, ні заслання, бо Україна є нездобутнім бастіоном героїв і борців”. ВГОЛОС. 2020年3月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月28日閲覧。
  14. ^ a b c d e f g h Войцеховский А.А., Ткаченко Г.С.. “Украинская антисоветская эмиграция. УВО-ОУН”. История национального движения Украины 1800-1920ые годы.. 2014年12月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月28日閲覧。
  15. ^ Людмила Рюміна (2016年8月19日). “Полковник Євген Коновалець”. Бібліотека. Книга. Читач.... 2017年5月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月1日閲覧。
  16. ^ Alexander J., Motyl (Spring 1985). “Ukrainian Nationalist Political Violence in Inter-War Poland, 1921-1939”. East European Quarterly 19 (1): 47, 52–53. "The UVO and the OUN did not consider violence and terrorism as ends in themselves. Rather they saw them as means of activating Ukrainian masses...of leading them to the revolution that would remove foreign rule and usher in a Ukrainian state. (「ウクライナ軍事組織とウクライナ民族主義者組織にとって、暴力やテロリズムは目的ではなかった。彼らはこのいずれも、ウクライナの大衆を活気づける手段、すなわち、自国が外国人の支配下に置かれている状態から脱却し、国民国家・ウクライナを樹立する革命へと導く手段である、とみなしていた」)" 
  17. ^ a b c d Войцеховский А.А. “Полковник Евгений Коновалец”. История национального движения Украины 1800-1920ые годы.. 2014年12月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月28日閲覧。
  18. ^ a b c Петро Мірчук. “V ЧАСТИНА: РОЗДІЛ 4 - КОНФЕРЕНЦІЯ ОУН В БЕРЛІНІ В ЧЕРВНІ 1933”. Нарис історії ОУН. Перший том: 1920-1939.. 2008年11月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月29日閲覧。
  19. ^ David L. Ransel, Bożena Shallcross. Polish Encounters, Russian Identity. Indiana University Press, 2005. P. 182.
  20. ^ Войцеховский А. А., Ткаченко Г. С. Украинский фашизм (теория и практика украинского интегрального национализма в документах и фактах). Киев: «Солюкс», 2004
  21. ^ a b Ігор МЕЛЬНИК (2014年6月15日). “Вбивство міністра Перацького”. Збруч. 2018年10月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月28日閲覧。
  22. ^ Вячесла́в Бори́сович Румя́нцев. “Степан Бандера”. ХРОНОС. 2023年7月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月29日閲覧。
  23. ^ a b c d e f g h i j k Па́вел Анато́льевич Судопла́тов. “Спецоперации”. Агентура.Ру. 2000年11月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月28日閲覧。
  24. ^ Pavel Sudoplatov, Special Tasks: The Memoirs of an Unwanted Witness, a Soviet Spymaster, pages 23-24.
  25. ^ a b c d Олександр Скрипник (2023年5月23日). “За ліквідацію Коновальця – трикімнатна квартира і 1000 рублів на меблі”. Історична Правда. 2023年5月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月30日閲覧。<
  26. ^ Еврейские погромы 1918-1921гг.”. Старые Газеты. 2023年4月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月31日閲覧。
  27. ^ a b c d e Станіслав Цалик (2018年5月23日). “Як Кремль убив Коновальця коробкою цукерок”. BBC News. 2023年8月31日閲覧。
  28. ^ a b c d e Сергій КРИЧИЛЬСЬКИЙ. “Пекельна машина в Роттердамі [Випуск № 21 (976)]”. Волинь Рівненський обласний народний тижневик. 2010年8月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月31日閲覧。
  29. ^ a b c 7. Смерть полк. Є. Коновальця і ії наслідки”. Підручники онлайн. 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月1日閲覧。
  30. ^ a b Богдана Тараніна (2021年5月22日). “Вбивство провідника”. Локальна Історія. 2021年7月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月1日閲覧。
  31. ^ Stepan Lenkavsky. “SOVIET RUSSIAN POLITICAL MURDERS ABROAD AND ATTEMPTS TO CAMOUFLAGE THEM”. EXLIBRIS - українська електронна бібліотека. 2007年2月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月1日閲覧。
  32. ^ Відозва Проводу Українських Націоналістів з нагоди смерти полк. Євгена Коновальця.”. Українська Повстанська Армія. 2005年1月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月1日閲覧。
  33. ^ Кость Бондаренко (2013年7月2日). “Історія, якої не знаємо чи не хочемо знати”. Народний Оглядач. 2014年12月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月28日閲覧。
  34. ^ Степан Бандера. “НАД МОГИЛОЮ ЄВГЕНА КОНОВАЛЬЦЯ”. 2007年10月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月1日閲覧。
  35. ^ Сергій Кот, Олександр Кучерук, Юрій Черченко (2017年7月11日). “Вельмишановний товаришу Олег! Листування Олега Ольжича та Євгена Коновальця”. Історична Правда. 2017年7月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月1日閲覧。
  36. ^ Введення в обіг пам’ятних монет України “Євген Коновалець” та “Спадок””. Національний банк України (2021年5月31日). 2021年6月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月1日閲覧。
  37. ^ On the Day of Defenders of Ukraine, the President presented state awards and took part in the oath taking by military lyceum students”. The Presidential Office of Ukraine (2023年10月1日). 2023年10月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年11月10日閲覧。
  38. ^ В ЗСУ з’явився батальйон Євгена Коновальця”. Історична Правда (2023年10月2日). 2023年10月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年11月10日閲覧。
  39. ^ a b «НАШЕ ЖИТТЯ — ЦЕ БУВ ВІЧНИЙ НЕСПОКІЙ...»: ІСТОРІЯ ДРУЖИНИ ПРОВІДНИКА ОУН ОЛЬГИ КОНОВАЛЕЦЬ”. Україна Молода (2020年1月15日). 2020年8月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月1日閲覧。
  40. ^ Непокоренный: 12 фактов о жизни и смерти Евгения Коновальца”. Жовква (2018年6月15日). 2018年11月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月1日閲覧。


「イェヴヘーン・コノヴァーレツ」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  イェヴヘーン・コノヴァーレツのページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「イェヴヘーン・コノヴァーレツ」の関連用語

イェヴヘーン・コノヴァーレツのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



イェヴヘーン・コノヴァーレツのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのイェヴヘーン・コノヴァーレツ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS