アン・ルイス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/11 09:25 UTC 版)
プロフィール
父親がアイルランド系アメリカ人[1](アメリカ海軍の軍人)で、母親が日本人のハーフ[1]。兵庫県神戸市に生まれ[1]、7歳から[1]横浜市中区本牧に在った米海軍の住宅街ベイサイドコートで育つ[1]。3、4歳の頃から雑誌モデルやフィルム会社のCMにも出ていた[1]。1970年、14歳のとき、横浜外国人墓地を散歩中[2][3]、なかにし礼にスカウトされ[1][2][3]、「なかにし礼商会」第一号タレントになる[2][4]。
1971年2月25日に、ビクターレコードよりシングル「白い週末」でデビュー[1]。当初はグラビアアイドルやアイドル歌謡を中心に活動する中、1974年に「グッド・バイ・マイ・ラブ」が、公称50万枚の大ヒット[1]。その後は歌手としてはパッとせず[1]、名前が出るのは週刊誌の恋愛関係の記事が多かった[1]。ファッションにこだわりを持ち、自身でステージ衣装のデザインを手がけることもしばしばあり、70年代後半は、当時の所属事務所・渡辺プロダクションの後輩、キャンディーズの「やさしい悪魔」のステージ衣装のデザインや[1]、仲が良かった山口百恵の衣装デザインを手掛けた[1]。また『SUZUYA』にオリジナルファッションブランド『ONAGO』を立ち上げた[1]。
桑名正博や多くのロックミュージシャンとの交流を経て[4]、徐々にロック色を強め[4]、1980年代に入ると「ラ・セゾン」や「六本木心中」「あゝ無情」などのヒット曲を放った[4]。これらはチェッカーズや吉川晃司らとともにロックと歌謡曲の垣根を取っ払ったひとりとしても評価される[5]。
記者会見で自らパニック障害であることを打ち明け、しばらく父親の母国アメリカに在住していたが、2005年11月23日にセルフカバー・アルバム『REBIRTH』を発売と同時に音楽活動を再開した。その後はファッションやペットグッズなどのデザイン、プロデュースも手がけている。2013年4月6日、元夫の桑名正博と息子の美勇士で親子3人共演CDを同年10月に発売すると同時に、これをもって完全にアン・ルイスが芸能界から引退することが発表された。
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 名田貴好; 橋倉正信『青春音楽グラフィティ タイガースからYMOまで』集英社〈集英社文庫 COBALT-SERIES〉、1981年4月、82–85頁。
- ^ a b c 「今週のニューボイス アン・ルイス」『週刊平凡』1971年4月8日号、平凡出版、47頁。
- ^ a b “放送リポート 1月19日 ゲスト:なかにし礼さん”. ドコモ団塊倶楽部 (文化放送). (2013年1月19日). オリジナルの2018年10月29日時点におけるアーカイブ。 2018年10月29日閲覧。
- ^ a b c d 日本の80年代にはアン・ルイスがいた!「六本木心中」からの「遊女」で最高潮!
- ^ アン・ルイス / アニーズ・ラグ・バグ~アン・ルイス・ボックス 5CD 限定
- ^ [1] 産経スポーツ、2013年11月24日閲覧。
- ^ 2009年3月13日放送回『独占!金曜日の告白SP』出演時に発言
- ^ 西城秀樹 Music 1970-1979
- ^ 大瀧詠一の「夢で逢えたら」が、日本のスタンダードに至るまでの道 TAP the POP 2014.10.23 佐藤剛
固有名詞の分類
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