DFVエンジンの誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 04:57 UTC 版)
「フォード・コスワース・DFVエンジン」の記事における「DFVエンジンの誕生」の解説
DFV は、1966年のレギュレーション変更でエンジン排気量が以前の1.5リットルから2倍の3.0リットルに拡大されたことへの対応で新規開発された。 準備期間が短かったため、各コンストラクターは大排気量レーシングエンジンの確保に苦労し、フェラーリはスポーツカーで使用中のV型12気筒をスケールダウンして流用、ホンダも V型12気筒と適合する車体(ホンダ・RA273)の開発に手間取り、シーズン開始に間に合わず途中からの参戦になった。 また BRM は180度V型8気筒(水平対向ではない)を2段重ねにしたH型16気筒を持ち込んだが、重量過大と信頼性欠如で苦戦した。クーパーに至っては1960年に撤退したマセラティの直列6気筒 2.5リットルを再使用したが、親会社の交代による混乱もあり通用しなかった。 ブラバムは軽量なトヨタ・クラウンエイト用アルミブロックも検討したが強度不足で却下し、ローバー・P6 やレンジローバー用に輸入されていたオーストラリアの GM ホールデンのV型8気筒OHVスモールブロックを基に、レプコのフランク・ハラムと、フリーのエンジン技術者フィル・アービングがクロスフローの SOHC ヘッドを架装したエンジンを自主製作した。軽量でトルクがあり信頼性の高いレプコ・ブラバムは、ライバル達の混乱を後目に1966年と1967年シーズンを連覇したが、専用開発中の 3.0リットルレーシングエンジンが本格化するまでの暫定的なものでしかなかった。 初年に BRM H16 のトラブル多発に懲りたロータスの総帥コーリン・チャップマンは、同社のエンジン部門に居たマイク・コスティンとキース・ダックワースが分家の形で独立した、新興エンジンメーカーのコスワースに 3.0リットルF1 専用エンジンの開発を依頼。ダックワースは、当時 F2 用に開発中の直列4気筒 1.6リットルの「FVA(Four Valve type A)」エンジンを結合してV型8気筒化したものを、FVA と平行開発する構想を持っており、名称は「Double Four Valve」の頭文字を取り「DFV」となった。 ところが当時コスワースは資金難で、開発費を負担してくれるスポンサーを求めていた。1963年からロータスはイギリス・フォードのコーティナに同社製 DOHC エンジンを搭載したホットバージョン、ロータス・コーティナを受託生産しており、チャップマンが英フォードで懇意のウォルター・ヘイズらにコスワースへの協力を打診した結果、DFVの開発費を提供することになり、DFV にはフォードのバッジネームが付いてフォード・コスワース・DFVの名で呼ばれた。また米フォード本社は当時モータースポーツに高い関心を寄せており、F1 進出のためフェラーリの買収を企図したもののエンツォ・フェラーリに拒否され失敗したばかりで、英フォードの DFV 計画にも積極的であったという。 ダックワースはマルチバルブの考察を更に進め、バルブ挟み角の小さいペントルーフ型燃焼室による高圧縮化・急速燃焼と、シリンダー内の縦の渦流(タンブル流)を利用した充填効率の向上により、レーシングエンジンで高出力と低燃費を両立させる事に初めて成功、これを DFV に適用した。 また、現代ではあたりまえになっている、エンジンブロック自身をフレームの強度メンバーの一部として使う手法は、DFV の誕生の頃にはまだ先進的・冒険的な設計のひとつであった(本エンジン以前の例としてはホンダ・RA271などがある)。そのように使われることを当初から前提として設計された本格エンジンは本機が最初だろう、とする論者もいる。
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