1980年代の活動
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1980年に村川透監督の東映映画『野獣死すべし』では、撮影のために10kgの過酷な減量だけでは飽き足らず、『奥歯を4本抜き』、さらに山籠もりまでしたという。1981年、黒澤満を信頼し、熊谷美由紀と一緒に東映系のセントラル・アーツに移籍。この後、アクション映画からしばらく距離を置き、演技派俳優への道を模索する。また、70年代後半には、サングラスをかけて原田芳雄の模倣、その後、萩原健一の演技をマネするなど、好きな俳優の演技スタイルを取り入れてしまうことは、映画業界でよく知られていた。この時期には音楽活動にも熱中し、ドラマ「探偵物語」では自身の出演場面を減らした回もあった。行きつけの酒場「レディ・ジェーン」の店主、大木雄高によれば、ジャズ、フリー・ジャズや、ピアソラのタンゴなどを好んで聴いていたという。 1981年、泉鏡花原作の文学作品『陽炎座』、松田優作の楽曲が織り込まれ、かつ、主人公の少年愛的な場面を描いた工藤栄一監督の『ヨコハマBJブルース』に主演。それまでのイメージとは異なる役柄を演じた。また『新・事件 ドクターストップ』以降、『新・夢千代日記』『女殺油地獄』『追う男』とNHKドラマへの出演が続いた。また、82年の向田邦子ドラマで桃井かおりと共演した際に、桃井から「ドラマをなめてる」と言われ、大げんかになったこともある。 1986年には映画『ア・ホーマンス』製作途中で、作品の方向性に関して意見が食い違ったため、監督が降板。自らがメガホンを取ることとなり、これが初監督作品となった。やくざ抗争とSFテイストを融合した異色の作品である。
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