1759年の戦役における作戦行動
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「ミンデンの戦い」の記事における「1759年の戦役における作戦行動」の解説
1759年に入るとどちらの陣営も、兵力の回復に勤しんだ。連合軍は3月中旬までに総勢72,000名を擁し、ミュンスターとリップシュタットから作戦可能であった。それに対峙したのは、コンタード侯率いるフランスのライン方面軍66,000名と、ブロイ公(1718年-1804年)指揮下のマイン方面軍31,000名であった。ブラウンシュヴァイク公フェルディナントは、フランス軍の攻勢に先んじるべく早期に主導権を握ろうと決心する。1759年3月23日、彼はブロイ公のマイン方面軍に対し攻撃を開始した。しかし同年4月13日、ベルゲンの戦いで敗北を喫し退却を強いられる。 コンタード侯はこの成功を利用し、自軍の正面に展開する連合軍を圧迫し始めた。1759年5月の初め、ヴェーゼル(英語版)からライン川を渡ったのである。一方、連合軍はハム、ハルターン(英語版)、デュルメン(英語版)及びコースフェルト(英語版)で守りに就いた。しかしコンタード候は、ブロイ公の軍に向かってマイン川からヘッセンに進み、これらの拠点を迂回する。程なくしてコンタード侯の軍は6月10日にコルバッハの、ブロイ公の軍はカッセルの近郊に達した。フランス軍はシュタットベルゲを通り、引き続きビーレフェルトに向って進軍する。その一方、アルメンティエール侯(1711年-1774年)率いるフランス側の別の軍団がミュンスターを攻囲し、陥落させた。ブラウンシュヴァイク公は優勢な敵を前に後退せねばならず、指揮下の各部隊を7月8日、オスナブリュックに集結させる。その間にフランスのマイン方面軍は、ヴェーザー川付近にあるプロイセンのミンデン要塞に接近していた。同軍の指揮官の兄弟であるブロイ伯は、歩兵1,500名と騎兵1,200名を率いて奇襲を敢行し、現地の農民の手引きもあって1759年7月10日、同要塞の占領と略奪に成功する。 ミンデンの占領後、フランス軍はハノーファーの国境に迫った。連合軍を退け、ミュンスターとリップシュタットの倉庫を手中に収めたのである。コンタード侯はひとまずミンデンに留まり、その要塞をハノーファーに対する次の攻勢に向けた策源地へと拡充することにした。彼は主力をミンデンの南西、バスタウ川(英語版)の後方に、そしてブロイ公の軍をヴェーザー川右岸に配置する。その間にブラウンシュヴァイク公フェルディナントはうつ病の兆候を見せ、プロイセン国王フリードリヒ2世(1712年-1786年)及び自身の秘書で、秘密の参謀総長であったフィリップ・フォン・ヴェストファーレン(ドイツ語版)(1724年-1792年)から反攻に移るよう迫られていた。実際、彼は7月中旬にコンタード侯を自陣から誘引し、侯がさらなる増援を呼び寄せる前に会戦を挑もうと試みている。 7月末に何度か小競り合いが発生し、ブラウンシュヴァイク公がゲオルク・アウグスト・フォン・ヴァンゲンハイム(ドイツ語版)少将(1706年-1780年)率いる軍団を「囮」としてトーテンハウゼン(ドイツ語版)まで前進させてもなお、コンタード侯は応じなかった。ヴァンゲンハイム少将は自陣に籠り、時機を待つ。それゆえブラウンシュヴァイク公は公世子カール・ヴィルヘルム・フェルディナント(1735年-1806年)に10,000の兵を授け、フランス軍の後方に派遣する。この軍団が7月28日、リュベッケでフランス軍の前哨を襲撃した時、コンタード侯はようやく対応を迫られた。そして増援が届くまで公世子を迎え撃つべく、ブリサック公(1698年-1780年)を差し向ける。しかし侯は兵站線に対するこの脅威によって、やはり早期に連合軍を攻撃する必要が生じ得ることを意識していた。 戦場の南は急峻で2本の道が通るヴィーエン山地(ドイツ語版)と、それと平行に流れ、ミンデン付近でヴェーザー川に合流するバスタウ川によって区切られていた。当時、この川を渡る手段は橋しかなかった上、北岸には湿原、グローセス・トルフモーア(英語版)がほぼ市境まで広がっており、そこには硬い地面がほとんどなかった。湿原の北にはヴェーザー川に向って東に下る平野が広がっていた。そこでは右岸の谷の縁が、左岸より高くなっていた。その一帯はトーテンハウゼン、クーテンハウゼン(ドイツ語版)、シュテンマー(ドイツ語版)、ホルツハウゼン(ドイツ語版)の各村によって二つに分かれていた。南半分は数々の溝や藪のおかげで見通しが余り良くなかったが、湿原の方ではハルトゥム(ドイツ語版)とハーレン(ドイツ語版)でより開けている。北ではエスパー川(英語版)が天然の障害物となっていたが、バスタウ川よりも遥かに渡りやすかった。ブラウンシュヴァイク公フェルディナントは、この土地をかなりよく知っていた。1758年3月14日、フランス軍に占領されたミンデンを攻囲し、占領してからまだ日が浅かったからである。
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