1759年のインドの情勢とは? わかりやすく解説

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1759年のインドの情勢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/17 09:32 UTC 版)

ポンディシェリーの海戦」の記事における「1759年のインドの情勢」の解説

1759年七年戦争4年目第三次カーナティック戦争3年目だったが、戦況フランス不利に傾き始めた年でもあった。1758年ラリー伯爵英語版)がインド到着したが、同時期にアンヌ・アントワーヌ・ダシェ率いフランス艦隊窮地に陥っていた。ラリー伯爵カーナティック地方英語版)のカッダロール奪取した後、1758年11月イギリス本拠地マドラス包囲したが、イギリス軍粘り強く抵抗しフランス艦隊援護もなかったため失敗した。ダシェ艦隊カダルール海戦ナーガパッティナムの海戦ジョージ・ポコック率いイギリス艦隊苦戦した後、冬季モンスーン訪れ前にインド水域から離れた。この時期コロマンデル海岸留まることは難しく、ダシェ艦隊ポンディシェリーから2か月間の航行経てイル=ド=フランス向かった一方イギリスインド西海岸良港ボンベイ領有していたので戦場近く留まることができた。この停泊地の差は早くも結果影響した1759年2月イギリス艦隊マドラス沖に現れフランス軍包囲されていたマドラス補給送ったラリー伯爵はこの補給見てマドラス包囲解いた両軍とも補給受け取ってから1759年戦役挑んだ。ここでもポコック率いイギリス艦隊のほうが行動が早く4月にはボンベイ出てラリー伯爵以下フランス軍駐留するポンディシェリー海上封鎖再開した一方フランス軍難し情勢にあったフランス海軍資源大半大西洋のほうに傾注していたが、カナダではすでにルイブール要塞ノバスコシア陥落しており、西アフリカ海岸では全ての植民地占領され唯一残った西インド諸島連絡を保つことが難しかったイル=ド=フランス本部ではダシェ艦隊への増援に熱心であった。ダシェ艦隊1757年から1758年までにかけて、74戦列艦1隻とフランス東インド会社の船8隻で編成されていたが、増援の後は74戦列艦1隻、ミシェル=ジョゼフ・フロガー・ド・レギーユ(フランス語版率い64門艦3隻、フランス東インド会社の船7隻で構成された。フランス東インド会社はこの艦隊の編成資金繰り大きく関わった。これはマスカリン諸島資源拠るのだったが、オランダ中立に留まったおかげでマダガスカルケープタウンから補給を受けることもできた。そして、フランスにとって幸運なことに、たまたまイギリス東インド会社商船1隻を拿捕したことで資金不足問題大きく解消された。しかし、艦隊準備に数か月かかることは変わらず戦闘の開始遅れてしまった。結局、ダシェ艦隊インド水域現れたのは9月はじめになってのことであった

※この「1759年のインドの情勢」の解説は、「ポンディシェリーの海戦」の解説の一部です。
「1759年のインドの情勢」を含む「ポンディシェリーの海戦」の記事については、「ポンディシェリーの海戦」の概要を参照ください。

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