1759年のインドの情勢
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「ポンディシェリーの海戦」の記事における「1759年のインドの情勢」の解説
1759年は七年戦争の4年目、第三次カーナティック戦争の3年目だったが、戦況がフランスに不利に傾き始めた年でもあった。1758年、ラリー伯爵(英語版)がインドに到着したが、同時期にアンヌ・アントワーヌ・ダシェ率いるフランス艦隊が窮地に陥っていた。ラリー伯爵はカーナティック地方(英語版)のカッダロールを奪取した後、1758年11月にイギリスの本拠地マドラスを包囲したが、イギリス軍が粘り強く抵抗し、フランス艦隊の援護もなかったため失敗した。ダシェ艦隊はカダルールの海戦とナーガパッティナムの海戦でジョージ・ポコック率いるイギリス艦隊に苦戦した後、冬季モンスーンが訪れる前にインド水域から離れた。この時期にコロマンデル海岸に留まることは難しく、ダシェ艦隊はポンディシェリーから2か月間の航行を経てイル=ド=フランスへ向かった。一方のイギリスはインド西海岸の良港ボンベイを領有していたので戦場近くに留まることができた。この停泊地の差は早くも結果に影響した。1759年2月、イギリス艦隊はマドラス沖に現れ、フランス軍に包囲されていたマドラスに補給を送った。ラリー伯爵はこの補給を見てマドラスの包囲を解いた。 両軍とも補給を受け取ってから1759年の戦役に挑んだ。ここでもポコック率いるイギリス艦隊のほうが行動が早く、4月にはボンベイを出て、ラリー伯爵以下フランス軍の駐留するポンディシェリーの海上封鎖を再開した。一方のフランス軍は難しい情勢にあった。フランス海軍は資源の大半を大西洋のほうに傾注していたが、カナダではすでにルイブール要塞やノバスコシアが陥落しており、西アフリカ海岸では全ての植民地が占領され、唯一残った西インド諸島も連絡を保つことが難しかった。 イル=ド=フランスの本部ではダシェ艦隊への増援に熱心であった。ダシェ艦隊は1757年から1758年までにかけて、74門戦列艦1隻とフランス東インド会社の船8隻で編成されていたが、増援の後は74門戦列艦1隻、ミシェル=ジョゼフ・フロガー・ド・レギーユ(フランス語版)率いる64門艦3隻、フランス東インド会社の船7隻で構成された。フランス東インド会社はこの艦隊の編成と資金繰りに大きく関わった。これはマスカリン諸島の資源に拠るものだったが、オランダが中立に留まったおかげでマダガスカルやケープタウンから補給を受けることもできた。そして、フランスにとって幸運なことに、たまたまイギリス東インド会社の商船1隻を拿捕したことで資金不足の問題が大きく解消された。しかし、艦隊の準備に数か月かかることは変わらず、戦闘の開始が遅れてしまった。結局、ダシェ艦隊がインド水域に現れたのは9月のはじめになってのことであった。
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