1759年と1760年
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1759年はプロイセンにとって敗北続きであった。カイの戦い(パルツィヒの戦いとも)において、ピョートル・サルトイコフ(英語版)伯爵率いるロシア軍4万7千がカール・ハインリヒ・フォン・ヴェーデル(英語版)将軍率いるプロイセン軍2万6千に勝利した。ハノーファー軍がミンデンの戦いでフランス軍6万を撃破したものの、オーストリア軍のダウン元帥はマクセンの戦いでプロイセン軍1万3千を降伏させることに成功、フリードリヒ2世自身もクネルスドルフの戦い(現ポーランド領クノヴィツェ)で軍の半分を失い、退位と自殺を考えるほどであった。この敗北はロシア軍がすでにツォルンドルフの戦いやグロース=イェーゲルスドルフの戦いで名声を挙げたにもかかわらず、フリードリヒ2世がロシア軍を見くびったことと、ロシア軍とオーストリア軍がうまく連携したことに原因があった。[要出典] 1759年、フランスはイギリス侵攻計画(英語版)を立て、ロワール河口で軍勢を集結させ、さらにブレストとトゥーロン艦隊を呼び寄せようとした。しかし、海戦における2つの敗北が侵攻を頓挫させた。8月、ラゴスの海戦においてエドワード・ボスコーエン率いるイギリス艦隊がジャン=フランソワ・ド・ラ・クリュー=サブラン(英語版)率いるフランスの地中海艦隊を撃破、さらに11月20日のキブロン湾の海戦においてエドワード・ホーク率いるイギリス戦列艦23隻がコンフラン伯爵(英語版)率いるフランスのブレスト艦隊(戦列艦21隻)に勝利、フランス艦の多くが沈没、拿捕、座礁したことでフランスの計画は失敗に終わった。 1760年もプロイセンにとって災難続きであった。オーストリア軍にはハインリヒ・アウグスト・ドゥ・ラ・モット・フーケ(英語版)率いるプロイセン軍がランデスフートの戦いで敗北、フランスにはマールブルクを占領され、スウェーデンにはポンメルンの一部を占領された。一方ハノーファー軍はヴァールブルクの戦いでフランス軍に勝利して、フランスによるオーストリア軍への増援を阻止した。 フランス軍と合流できなかったものの、ラウドン将軍率いるオーストリア軍はグラーツ(現ポーランド領クウォツコ(英語版))を包囲、占領した。シュレージエン地方でのリーグニッツの戦いでは3倍近くの敵数に対しフリードリヒ2世が見事に勝利した。ピョートル・サルトイコフ(英語版)率いるロシア軍とフランツ・モーリッツ・フォン・ラシー率いるオーストリア軍は10月にプロイセンの首都ベルリンを占領し、すぐに撤退したが、フリードリヒ2世の権威が大きく失墜した。フリードリヒ2世は年末にトルガウの戦いで再び勝利したが、自軍も大きな損害を被り、オーストリアは規律を保った退却に成功した。[要出典] 一方のロシア軍はクネルスドルフの戦いの後、動きがほとんどがなかった。貧弱な補給線が原因であった。ロシア軍の補給が悪くて1759年10月にはオーストリア軍の需品係がロシア軍の補給も担当するという協定が成立した。しかし、オーストリア軍とロシア軍の両方を補給することがオーストリア軍の需品係の能力を超えてしまったため、協定は実際にはほとんど役に立たず、ロシア軍は少量の補給しか受けられなかった。リーグニッツの戦いではロシア軍が遅れて戦闘に参加できなかった。また1759年と1760年の2回、コルベルクを包囲したがいずれも失敗し、この頑強な抵抗でフリードリヒ2世は軍を分割せずにオーストリア軍の対処に集中することができた。
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