1210年代
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1210年代(せんにひゃくじゅうねんだい)は、西暦(ユリウス暦)1210年から1219年までの10年間を指す十年紀。
- 1 1210年代とは
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1210年代
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詳細は「1210年代」を参照 1210年土御門天皇が譲位し、第84代順徳天皇が即位。 教皇インノケンティウス3世が神聖ローマ皇帝オットー4世を破門する。 教皇インノケンティウス3世がアッシジのフランチェスコと会見。 1211年ブルガリアのタルノヴォ主教会議でボゴミル派が異端とされる。 西遼(カラ・キタイ)の帝位がナイマン部のクチュルクに簒奪される。 天山ウイグル王国のバルチュク・アルト・テギンがモンゴル帝国に臣従する。 1212年ナバス・デ・トロサの戦いでアルフォンソ8世のカトリック連合軍がムワッヒド朝揮下のイスラム連合軍を破る。 少年十字軍。 プシェミスル朝のボヘミア国王オタカル1世が王国の世襲を認められる。 ブーヴィーヌの戦いでフランス王フィリップ2世がイングランド王ジョンに勝利。 鴨長明の『方丈記』が書かれる。 1213年西遼の耶律氏の血統が断絶。 和田合戦。 1214年モンゴルが中都を包囲し、金の宣宗は中都から開封へ遷都。 1215年第4ラテラン公会議。 イングランド王国でマグナ・カルタが制定される。第一次バロン戦争( - 1217年)。 1216年教皇ホノリウス3世が説教者修道会(ドミニコ会)を認可。 1217年ジャン・ド・ブリエンヌらによる第5回十字軍。 源実朝が宋人陳和卿に命じ大型船を作らせるも渡航には失敗。 1218年モンゴルに西遼が滅ぼされる。西遼の旧領はチンギス・カンの次男チャガタイのウルス(所領)となる(チャガタイ・ハン国)。 オトラル事件により、モンゴルの通商使節団がホラズム朝に虐殺され、チンギス・カンの西征が始まる。 クメール王国が南宋の宮廷に遣使する。 レオン王国のアルフォンソ9世によりサラマンカ大学が創設される。 1219年鎌倉幕府第3代将軍源実朝が暗殺され、源氏の嫡流が途絶える。 デンマーク王ヴァルデマー2世がエストニアに侵攻し、トームペア城(現在のタリン)を築く。
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