(十一代)鳥飼演廣(のぶひろ)・斐隠(はいいん)
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安政2年(1855年)1月27日小川家に生まれる。慶応4年(1868年)に会津で戦死した正時の嫡子正長は幼年で亡くなってしまったため、鳥飼に養子に入り正時の家督を相続し、妻礼(正時の長女)との間に六男一女(正一・正潔・正安・正光・正俊・正文・愛子)をもうけた。礼の妹くにはすぐ裏隣の松本家へ嫁ぎ、娘ゑいをもうけ、ゑいの娘衣子が後に孫鳥飼正義の妻となるである。また、次男正潔は父正時の実家である金子家を継ぐために養子に出している。 演廣は桑名の教育の発展に一生を捧げた。1875年(明治8年)に三重県師範学校普通科修業後、桑名郡桑名町立第二尋常小学校(現在の桑名市立精義小学校)の設立に尽力し、設立当初より教鞭をとる傍ら、私費を投じて校庭の拡張や新校舎建設に奔走し、1886年(明治19年)2月から1917年(大正6年)5月までの実に31年間校長を勤めた。その功績をたたえ、1921年(大正10年)校内に銅像(作・新田藤太郎)が建てられたが、太平洋戦争の際に銅像は軍事供用されてしまい現存していない。尚、台座は創立百周年の記念事業として1975年(昭和50年)「少年像」(作・米治一)の台座として今でも精義小学校の校庭の中で子供たちの成長を見守っている(『恩師鳥飼演広先生の銅像の台座を拝借し、少年少女之像を建立』精義小学校百年誌より)。さらに銅製の碑名板『恩師鳥飼演廣先生御壽像』は精義小学校正面玄関の校長室前の廊下に今も掲げられているが、その由来を知る人は数少ない。 また、その間桑名藩の義士森陳明(つらあき)の業績をたたえるため奔走し十念寺門前に「戊辰戦争桑名義士森陳明墓所」の石碑の建立に携わった。また、鳥飼家に伝わる古文書の書き写しを行った。没後これらの文書を鎮國守國神社に寄贈し、今も「桑名城内鳥飼家」の朱印を押した『鳥飼家文書』二十九冊は、桑名の歴史研究に役立っている。 69歳の時に期待の長男正一に先立たれ、桑名を引き払い三男正安のもとで亡くなったが、故郷の揖斐川を思い出しながらの隠居生活からか『斐隠(はいいん)』という隠居名を使っていた文書が残っている。斐隠とは中国の城市の名医であり、杜甫が治療をしてもらうために近くまで来て亡くなったという逸話があることからも、演廣の見識の広さを知ることができる。この頃、正義に『本来はお前に世話になるべきだった』との言葉とともに、鳥飼文書を送り届けてきたように、何か寂しい晩年を示している。 著書『珠算教授次第(上巻・下巻)』細谷又吉共著、明治17年11月10日発行、北勢舎書舗、定価25銭(国立国会図書館所蔵) ■1936年(昭和11年)2月18日没、享年81。法名、明教院徳譽演廣居士。
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