鳥飼演廣・斐隠とは? わかりやすく解説

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(十一代)鳥飼演廣(のぶひろ)・斐隠(はいいん)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/16 18:44 UTC 版)

鳥飼家」の記事における「(十一代鳥飼演廣(のぶひろ)・斐隠(はいいん)」の解説

安政2年1855年1月27日小川家生まれる。慶応4年1868年)に会津戦死した正時嫡子正長幼年亡くなってしまったため、鳥飼養子入り正時家督相続し、妻礼(正時長女)との間に六男一女正一・正潔・正安正光・正俊・正文愛子)をもうけた。礼の妹くにはすぐ裏隣の松本家嫁ぎ、娘ゑいをもうけ、ゑいの娘衣子が後に孫鳥飼正義の妻となるである。また、次男正潔は父正時実家である金子家を継ぐために養子出している。 演廣は桑名教育発展一生捧げた1875年明治8年)に三重県師範学校普通科修業後、桑名郡桑名町第二尋常小学校現在の桑名市精義小学校)の設立尽力し設立当初より教鞭をとる傍ら私費投じて校庭拡張新校舎建設奔走し1886年明治19年2月から1917年大正6年5月までの実に31年校長勤めた。その功績をたたえ、1921年大正10年校内銅像(作・新田藤太郎)が建てられたが、太平洋戦争の際に銅像軍事供用されてしまい現存していない。尚、台座創立百周年記念事業として1975年昭和50年)「少年像」(作・米治一)の台座として今でも精義小学校校庭の中で子供たち成長見守っている(『恩師鳥飼演広先生銅像台座拝借し少年少女之像を建立精義小学校百年誌より)。さらに銅製の碑名板恩師鳥飼演廣先生壽像』は精義小学校正面玄関校長室前の廊下に今も掲げられているが、その由来知る人数少ないまた、その間桑名藩義士森陳明(つらあき)の業績たたえるため奔走し十念寺門前に「戊辰戦争桑名義士森陳明墓所」の石碑の建立携わったまた、鳥飼家に伝わる古文書書き写し行った没後これらの文書鎮國守國神社寄贈し、今も「桑名城鳥飼家」の朱印押した鳥飼家文書二十九冊は、桑名歴史研究役立っている。 69歳時に期待長男正一先立たれ桑名引き払い三男正安のもとで亡くなったが、故郷揖斐川思い出しながらの隠居生活からか『斐隠(はいいん)』という隠居名を使っていた文書残っている。斐隠とは中国城市名医であり、杜甫治療をしてもらうために近くまで来て亡くなったという逸話があることからも、演廣の見識広さを知ることができる。この頃正義に『本来はお前に世話になるきだった』との言葉とともに鳥飼文書送り届けてたように、何か寂し晩年示している。 著書珠算教授次第上巻下巻)』細谷又吉共著明治17年11月10日発行北勢書舗定価25銭(国立国会図書館所蔵) ■1936年昭和11年2月18日没、享年81法名、明教院徳譽演廣居士。

※この「(十一代)鳥飼演廣(のぶひろ)・斐隠(はいいん)」の解説は、「鳥飼家」の解説の一部です。
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