こうや‐さんかた〔カウヤ‐〕【高野三方】
こうやさんかた 【高野三方】
高野三方
高野三方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 17:06 UTC 版)
平安時代以降、江戸時代まで存在した高野山の僧徒の三派の称で、学侶、行人、聖で構成され、明治になり廃止、統合された。通称「高野十谷」といわれる谷ごとに学侶や行人の坊が造られ、多くの子院・塔頭があった。学侶、行人、聖の順に階級的要素があり、聖が一番下層に見られる傾向があり、度々派閥的争いがあった。 学侶 - 学侶方ともいわれ、純粋な真言密教の教義、学問、法会などの学業修行に努めた僧衆。貴族の子弟も多くいた。代表寺院は、青巌寺であった。 行人 - 行人方ともいわれ、修験的傾向が強く、学侶が法会などの行事を行うときに裏方でサポートを行う。「承仕」という灯明・線香を灯すなどの雑務や、夜間の堂宇の見張りをする堂守り、諸堂建立や寺領・荘園管理、外敵から高野山を守る僧兵もした僧衆である。代表寺院は、興山寺であった。 聖 - 聖方ともいわれ、高野山に集まった聖は高野聖とよばれ、代表寺院は、大徳院であった。行人から派生した僧や他宗派、霊場などから入山したり、また高野山へ隠遁して念仏修行した僧衆。のちに諸国を遍歴し説法、勧進、護符や薬草を売る行商を行ったり、高野山への納骨・納髪を勧め、高野山の経済を底辺から支えた。その活動範囲は、一般庶民から、貴族、皇室にいたり、活動で得た浄財は高野山へ納め、その一部を自身の収入とした。高野山の浄土信仰と弘法大師信仰を日本全国へ広めるうえで大きな存在だった。公に認められていた官僧は皇室や貴族のために存在していたため、聖が諸国を遍歴するまでは一般庶民が死者供養できなかった。高野山へ訪れることができない人々に空海との結縁を作り、説教節とよばれる講談調の「苅萱」の語り手でもあり、庶民の娯楽にもなった。また日本各地の空海が訪れたことがない場所での弘法大師伝説は高野聖の活動によるといわれる。山内に別所とよばれる庵を作り真言密教とは違う浄土信仰と念仏信仰を説いたため、学侶方から疎まれる存在であった。高野山は真言密教の修禅道場であるが、浄土信仰ゆかりの地ともいわれ、浄土信仰の教えを説く僧が入山し高野聖となった者も多く、中興の祖といわれる覚鑁も聖方で、真言密教と浄土教を統合した教えを説いている。
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