湯女
風呂屋者(風呂屋女)
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寛永20年(1643年)の『色音論』(しきおんろん、別名『志きをんろん』あるいは『あづまめぐり』)のなかの一節に、「江戸時代寛永中盛んなりし」とある風呂屋女は、「お風呂を召しませ」、「お背中流しませう」などといい、かゆいところに手が届くサービスが喜ばれ、流行し、模倣され、江戸をはじめとし諸国で湯女が流行した。 湯女は制限されたので、江戸では別に、「風呂屋女」という名称を立て、表向きは職分を分け、湯女と同じく売春した。寛永6年(1629年)に、女歌舞伎が風紀を乱すとして禁止されると、風呂屋女と称して風呂屋が美女を置いて接客を始め、彼女らが女歌舞伎役者に代わる私娼として人気を集めた。人気のあまり、吉原の公娼が風呂屋に出稼ぎに出ることもあり、慶安元年(1648年)に「風呂屋禁止令」が出たが、効果がなく、同4年(1651年)には風呂看板の売買を禁止、風呂屋女は一軒につき3人までとする制限を出すなど規制したが一向に効果がないため、明暦3年(1657年)に幕府によって200軒以上あった江戸町内の風呂屋が打ち壊された。江戸では、元禄16年(1703年)の地震大火ののち、風呂屋の営業内容が一変し、公には純粋な銭湯が行なわれたが、上方ではなおも風呂女の売春が続いた。東京でも明治12 - 13年ごろまで、風呂屋の2階に2 - 3人の女を置き、売春が行なわれていた。 井原西鶴の『好色一代女』巻5に、「一夜を銀六匁にて呼子鳥、是伝授女なり。覚束なくて尋ねけるに、風呂屋ものを猿といふなるべし。くれ方より人によばれける」とあり、江戸では汗を流すというのに対し、上方では垢を掻くという意味で風呂屋者を「猿」と称した。「栄花咄」には、当時の風呂屋ものについて、「大臣にさそはれ、姉が小路の和泉風呂に入相の頃より行きて、吹かれてさつとあがり場に座して」、「同じ心の友あそび、皆でなんぼがものぞ、ありたけ出せと、丸行燈たばこぼん菓子盆を段々に、また気が替りておもしろし、かかりしものの後には、祇園町、島の内みな全盛のこととなれり。江戸も風呂屋茶屋のものより、散茶はじまりて、今の昼三二階にあがれば、これなり」とある。 元禄以後、上方で流行した名残としては、天保以後まで大坂島之内の娼家などが、「○○風呂」と称したことで知られる。『心中天網島』の主人公、小春も島之内の風呂屋女の出身である。
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