題材・モデル
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『金閣寺』の題材は、1950年(昭和25年)7月2日未明に実際に起きた「金閣寺放火事件」から取られたが、三島独自の人物造型、観念を加え構築し、文学作品として構成している。三島の没後30年の2000年(平成12年)に全公開された「『金閣寺』創作ノート」には、より詳細な構想の過程が見て取れる。構想には、「金閣寺放火事件」について小林秀雄が述べたエッセイ「金閣焼亡」(1950年9月)からの刺激もあったとされる。また奥野健男が『太宰治論』を書く際に参考にしたミンコフスキー著の『精神分裂病』を勧められ、『金閣寺』の執筆以前に読んでいたとされる。 1955年(昭和30年)9月から、肉体改造(ボディビル)に乗り出した三島(当時30歳)は、「行為」の意味を模索し始め、その5年前に起った「金閣寺放火事件」の犯人・林養賢の犯罪行為(美に対する反感)を、「美への行為」と見なすことで、そこに三島自身の問題性、文学的モチーフを盛り込み、自らの人生の主題を賭ける新たな素材とした。また「創作ノート」には、〈林養賢は書かざる芸術家、犯罪の天才〉という記述も見られ、戦後社会の風潮に違和感を持っていた三島が、「犯罪の形で表れる若者のプロテスト」に親近感を抱いていたと佐藤秀明は解説している。 三島は同年11月に京都に赴いたが、金閣寺(鹿苑寺)の直接取材や面談は断られたため、同じ臨済宗異派の妙心寺に泊まり、若い修行僧の生活を調べた。金閣寺周辺取材について三島は、〈それこそ舐めるやうにスケッチして歩いた〉と語り、南禅寺、大谷大学、舞鶴近郊の成生岬、由良川河口も丹念に文章スケッチされ、五番町などは実際に遊廓の一軒に上がり、二階の部屋の内部の様子や、中庭に干された洗濯物までも詳細に記述されている。さらに、どうやって調査したのか、直接取材を断られたにもかかわらず、金閣寺内の間取りや畳数を記した室内図や作業場内部の図まで克明に描かれている。 なお、金閣寺の前で雪の上の娼婦を踏みつける場面は、歌舞伎『祇園祭礼信仰記』の「北山金閣寺の場」で松永大膳が雪舟の孫娘・雪姫(清原雪信がモデル)を金閣寺の前で足蹴にする場面をヒントに創作したことを三島は村松剛に言っていたとされる。
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題材・モデル
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『青の時代』の題材は、執筆前年の1949年(昭和24年)11月24日に起った「光クラブ事件」から取られており、主人公・川崎誠のモデルは、闇金融「光クラブ」の社長・山崎晃嗣である。戦後の世相を騒がせた「光クラブ事件」は、高金利金融会社「光クラブ」を経営していた東大法学部3年の山崎晃嗣が、物価統制令、銀行法違反に問われ、多額の債務を残したまま、27歳で青酸カリを飲んで自殺したというものである。 「アプレ青年」と呼ばれた山崎が起こしたこの事件は、戦後の価値の混乱を象徴するものであった。遺書には、「貸借法すべて青酸カリ自殺」という、人を食ったような辞世の句を残したが、『青の時代』では主人公が自殺するまでは描かれずに、暗示に留めたまま終わらせている。
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