電波少年シリーズ
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電波少年シリーズ(でんぱしょうねんシリーズ)は、1992年より断続的に制作されているバラエティ番組のシリーズ。
注釈
- ^ 2007年に「gooリサーチ」において実施したgooランキング「もう一度見てみたい懐かしの深夜番組ランキング」において、「電波少年シリーズ」が第3位にランキングされている。 もっとも、関西地区(読売テレビ)など一部地域では、同時間帯にローカル番組を編成していたために深夜に放送されていたり、それ以外の地域でも野球中継や特番などのため、直前の枠が延長されて放送時間が30分以上繰り下げられた場合、実質的に深夜時間帯(23時台)での放送となるケースもある。2000年9月24日に巨人が優勝した時は、中継終了後に優勝祝賀特番が組まれたことにより、『進ぬ!』の当日放送分が深夜1時半から放送されたこともあった。
- ^ レギュラー放送は1997年12月28日まで、1998年1月4日は休止[2]
出典
- ^ a b “新番組「電波少年W」総合演出は土屋敏男氏「あなたのテレビの記憶を集めた~い!」”. お笑いナタリー (ナターシャ). (2020年11月5日) 2021年1月18日閲覧。
- ^ 『朝日新聞』1998年12月28日、1997年1月1日、4日
- ^ https://www.oricon.co.jp/prof/105291/tv/p/18/ ORICON NEWS チューヤン TV出演情報
- ^ https://www.oricon.co.jp/prof/367137/tv/p/253/ ORICON NEWS みのもんた TV出演情報
- ^ “PCの中で「なすび」が懸賞に応募!「電波少年的懸賞生活ソフト なすびの部屋」”. INTERNET Watch (インプレス). (1998年8月17日) 2015年4月21日閲覧。
- ^ “セガ製品情報 家庭用ゲーム ソフトデータベース ドリームキャスト 電波少年的懸賞生活ソフト なすびの部屋”. セガゲームス. 2015年4月21日閲覧。
- ^ ひまわりネットワーク. “進め!豊田少年家族”. ひまわりネットワーク株式会社. 2024年4月25日閲覧。
- ^ 土屋敏男. “いよいよ豊田市で地元吸着番組始まりました!”. note株式会社. 2024年4月25日閲覧。
- 1 電波少年シリーズとは
- 2 電波少年シリーズの概要
- 3 ゲームソフト
電波少年
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電波少年に出演する前、所属事務所が主催するライブのオーディションに全く受からなくなり、途方に暮れていた。マネージャーに「事務所を辞める」と告げた日、最後の仕事として依頼されたのが、電波少年の前説だった。前説の数日後、自宅からマネージャーとの打ち合わせに向かう最中、道路に駐車されてあったマイクロバスのドアが突然開き、土屋敏男プロデューサーから『何やってるんだ乗れ。飯奢ってやるよ』と促された。パスポートを渡され、目隠しとヘッドフォンを付けられて情報を遮断され、3日ぐらい連れ回された後、ヘッドフォンが外されて、5、6人の聞いたことのない外国の言葉が飛び交っていて、ここはあたかも外国の空港から出発するかのように番組側が演出していた。「電波少年的無人島脱出」の企画は、愛媛県の無人島から、自分たちで筏を作って脱出し、人が住んでいる場所まで行くというのがゴールだったが、案の定、Rまにあは自分たちがいる無人島が海外だと信じ切っていた。この無人島は、後にDASH島となる。この企画をチャレンジした理由について宿輪は「僕も相方も正直、テレビですからいろんなサポートがあって、実際は楽なんじゃないかなと思っていたのと、「電波少年」ってその頃人気あったので、出演できたらおいしんじゃねえかっていう、安易な感じで引き受けました」と完全に若気のノリで引き受けてしまったという。 「電波少年的スワンの旅」で使用されたスワンボートは池で貸し出されているスワンボートとは違い、航洋向けにヨットデザイナー高井理に設計を依頼した番組オリジナル。国内用に2隻、インド洋用に1隻建造された。国内用は純然たる人力航行のシステムで、2人で漕ぐことで最高耐水速力5ノットの設計であったが実際は海況にもよるものの2〜3ノットと実に微速であり、また人力船ゆえに軽量が求められ、構造上脆弱なため緊急時の曳航もままならず、よって番組の収録は過酷を極める結果となった。なお当初の予定では目的の島や港の付近のみ実際に人力で漕ぎ、それ以外の大半の航程はサポート艇で曳航する計画だったが、前記の理由で早々に断念されている。続く海外版では、1回の航行距離が長くなることと、先の過酷さから学び、特別設計の推進システムを採用し、船体も補強して臨むものの故障が多く、結果としてオール等の人力主体となり、熾烈なロケを強行せざるを得なくなった、とされている。こうした事のため企画の経費が当初予定を遥かに超えてしまい、Rまにあ自身はもちろんスタッフの多くも疲労困憊してこの企画そのものに疑問を呈する者も少なくなかったという。 この「電波少年的スワンの旅」で使用した脚力を使い、今度は雷波少年の企画「シドニーへの道」において競輪競技の世界へ挑戦することになり、競輪の学校に2人で短期入学をした後、東京ドームで行われた競輪の選手権に出場するが、ケガで断念。 翌年に2回目の挑戦をして、宿輪はサポート役で中嶋が出場して見事に芸能界で1位に輝いて企画終了となった。 こうして一連のRまにあの企画は、電波少年と雷波少年合わせて約2年に渡る最長記録になった(「無人島生活」105日間。「スワンの旅」愛媛~東京=75日間、東京~仙台=85日間、インド~インドネシア=283日間)。
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