長井氏から福原氏へとは? わかりやすく解説

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長井氏から福原氏へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 23:46 UTC 版)

安芸福原氏」の記事における「長井氏から福原氏へ」の解説

毛利元春の五男、毛利広世が備後国守護長井氏養子入ったことが、福原氏始まりとなる。長井氏鎌倉幕府政所初代別当大江広元次男長井時広初代とする大江氏惣領家毛利氏広元の四男毛利季光を祖とするので同族であった長井時広承久2年1221年)の承久の乱の後、備後国守護職得て次男長井泰重六波羅評定衆となり、京都へと出仕した。泰重は備後のほか、備前周防守護職得て以降西国所領はこの系統によって管理されるようになった備後長井氏)。 長井氏嫡流家(出羽長井氏当主長井泰秀であった宝治元年1247年)に宝治合戦起き毛利氏当主毛利季光三浦泰村味方して討死した。泰秀は北条氏味方しており、越後にいた毛利季光遺児毛利経光助け安芸国所領存続尽力した建武の新政係る混乱備後守護職を失うものの、長井貞頼足利尊氏に従って活動し備後国所領以外に播磨国浦上荘、越後国社荘、出雲国来次荘の地頭職得た。しかし南朝:正平6年/北朝:観応2年1351年)から始まる観応の擾乱の後、貞治2年1363年)に討死した。子の貞広は今川了俊に従って九州転戦し永和元年1375年)に筑後国討死した。貞広は養子として毛利元春の子広世を迎えており、これが安芸福原氏の祖となるのである長井広世は父の元春より安芸国内で福原村等を譲られ、後に広世は福原村鈴尾城築いて居城とし、長井から福原へと名字変えた養父長井貞広の縁もあり、足利将軍家等からも所領安堵され、毛利氏宗家から独立した領主となった

※この「長井氏から福原氏へ」の解説は、「安芸福原氏」の解説の一部です。
「長井氏から福原氏へ」を含む「安芸福原氏」の記事については、「安芸福原氏」の概要を参照ください。

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