金角湾の城門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:37 UTC 版)
「コンスタンティノープルの城壁」の記事における「金角湾の城門」の解説
以下では、金角湾の城壁に存在した門を、ブラケルナエから順に西から東へたどっていく。 最初の、陸の城壁のすぐ近くにあったのがコイリオーメーネー門 (Κοιλιωμένη (Κυλιoμένη) Πόρτα, Koiliōmēnē (Kyliomēnē) Porta, 「丸まった門」の意。トルコ語ではキュチュク・アイヴァンサライ・カプス Küçük Ayvansaray Kapısı)である。またすぐに聖アナスタシアの門 (Πύλη τῆς ἁγίας Ἀναστασίας, Pylē tēs hagias Anastasias)がある。後にアティク・ムスタファ・パシャ・モスクが近くに建てられたことから、トルコ語ではアティク・ムスタファ・パシャ・カプス(Atik Mustafa Paşa Kapısı)という。 すぐ外側には、聖ニコラオス・カナボス教会が存在する。ここは1597年から1601年までの短期間、コンスタンディヌーポリ総主教庁が置かれていた。 海岸を下っていくと、トルコ語でバラト・カプ ('Balat Kapı 「宮殿の門」の意)と呼ばれる門がある。その前には3つの大きなアーチ道があり、バラト・カプは海岸からここを通ってブラケルナエ宮殿に入るための門となっている。もともとこの場所には、ビザンツ時代には2つの門があった。すなわちキュネゴスの門 (Πύλη τοῦ Κυνηγοῦ/τῶν Κυνηγῶν, Pylē tou Kynēgou/tōn Kynēgōn 「狩人たちの門」の意、後背のキュネゴン地区に由来)と、前駆授洗(ヨハネス、イオアン)の門 (Πόρτα τοῦ ἁγίου Προδρόμου και Βαπτιστοῦ, Porta tou hagiou Prodromou kai Baptistou)である。ただし、2つが同じ門であった可能性も否定できない。いずれにせよバラト・カプはそれらの門の内の一つであり、また同時に金角湾の城壁にある3つの帝門 (Πύλη Βασιλικὴ, Pylē Basilikē)の一つであった。 さらに南へ行くと、ファナリオンの門 (Πύλη τοῦ Φαναρίου, Pylē tou Phanariou, トルコ語: Fener Kapısı)がある。この名は現地の灯台 (ギリシア語: phanarion)に由来し、この地区の名前(フェネル)にもなっている。またこの門は、ペトリオーン要塞 (κάστρον τῶν Πετρίων, kastron tōn Petriōn)の西門も兼ねていた。ファナリオンの門からペトリオーンの門(Πύλη τοῦ Πετρίου, Pylē tou Petriou, トルコ語: Petri Kapısı)までは城壁が二重構造になっていた。ビザンツ帝国時代の定説によれば、この名はユスティニアヌス1世 (在位: 527年–565年)の重臣ペトロス・パトリキオスに由来しているという。ファナリオンの門に近い要塞西端の内壁には、市内に通じるディプロファナリオンという小門が存在した。1204年の包囲戦では、エンリコ・ダンドロ率いるヴェネツィア軍がペトリオーンの門を陥れ、コンスタンティノープル制圧に成功した。しかし1453年に同じ場所を攻撃したオスマン軍は撃退された。 次にあるイェニ・アヤカプ(Yeni Ayakapı 「聖人の新門」の意)はオスマン帝国時代に建てられたものである。ただし、もともとビザンツ時代にあった門が建て替えられてできた可能性もある。1582年、オスマン帝国の大建築家であるミマール・スィナンによって建設された。そのすぐ近くにアヤカプ(Ayakapı 「聖人の門」)がある。ギリシア語では聖テオドシアの門 (Πύλη τῆς Ἁγίας Θεοδοσίας) と呼ばれている。この名は、近くに立っていた聖テオドシア教会(以前はギュル・モスクに比定されていた)に由来する。 次の門はギリシア語でピュレー・エイス・ペーガス (Πύλη εἰς Πηγάς, Pylē eis Pēgas) と呼ばれ、ラテン語年代記者はポルタ・プテアエ(Porta Puteae)もしくはポルタ・デル・ポッツォ(Porta del Pozzo)と呼んだ。現在のジバリ・カプス(Cibali Kapısı)である。この名は、金角湾の対岸のペガエ地区 (Πηγαὶ, Pēgai, 「春」の意)に由来する。 次にはプラテアの門 (Πόρτα τῆς Πλατέας, Porta tēs Plateas)が存在したが、現在では取り壊されている。イタリア人年代記者たちはポルタ・デッラ・ピアッツァ(Porta della Piazza)と呼び、トルコ語ではウンカパヌ・カプス(Unkapanı Kapısı 「小麦粉倉庫の門」の意)と呼ばれた。もとのギリシア語名は、現地のプラテ(イ)ア地区(Plate[i]a 「広い場所」の意。この地の海岸線の広さを示している)に由来する。 その次にあるアヤズマ・カプス(Ayazma Kapısı 「聖なる泉の門」の意)は、おそらくすべてオスマン時代に建設された門である。 次の門はドロウンガリオスの門 (Πύλη τῶν Δρουγγαρίων, Pylē tōn Droungariōn)である。現在ではオドゥンカプス(Odunkapısı 「木の門」の意)と呼ばれている。ギリシア語名は、ビザンツ帝国の軍人の要職ドロウンガリオス・テース・ヴィグラスに由来する。ここはヴェネツィア人地区の西端であった。次には先駆者の門があった。これはラテン人の間では、近くにあった教会の名をとって聖ヨハネス・デ・コルニブスの門と呼ばれた。トルコ語ではジンダン・カプス(Zindan Kapısı 「地下牢の門」の意)として知られる。 その次には破壊されたペラマの門 (Πόρτα τοῦ Περάματος, Porta tou Peramatos)がある。このペラマ(渡し)地区からは、対岸のペラ、ガラタへの船が出ていた。またここがヴェネツィア人地区の東端で、代わりにアマルフィ人地区が始まっていた。ブオンデルモンティの地図では、魚市場が開かれていたことからこの門にポルタ・ピスカリア(Porta Piscaria)という名を記していた。これは現代のトルコ語名バルクパザル・カプス(Balıkpazarı Kapısı 「魚市場の門」の意の由来となっている。またユダヤ人の門 (Ἑβραϊκὴ Πόρτα, Hebraïkē Porta)と呼ばれた門もここに比定されている。ラテン語でも同じ意味のポルタ・ヘブライカ(Porta Hebraica)という名による言及がみられるが、この名は他の門について使われたこともあった。 おそらくこの門からすぐの場所に、聖マルコの門が存在した。これは1229年のヴェネツィアの記録にのみ登場する門であり、それ以上のことは不明である。ヴェネツィアの守護聖人の名を冠しているのも怪しい点であり、もともと存在したのか1204年の十字軍によるコンスタンティノープル征服以後に開けられたのかすら分かっていない。 ペラマの門から東に行くと、ヒカナティッサの門 (Πόρτα τῆς Ἱκανατίσσης, Porta tēs Hikanatissēs)がある。これはおそらく、皇帝直属軍タグマの中のヒカナトス軍団に由来する。ここがアマルフィ人地区の東端であり、ピサ人地区の西端でもある。 さらに東へ行くと、ネオーリオンの門 (Πόρτα τοῦ Νεωρίου, Porta tou Neōriou)がある。後期ビザンツ時代やオスマン時代にはホライア門 (Πύλη Ὡραία, Pylē Horaia, 「美しい門」の意)と呼ばれた。ここには古代ビュザンティオン時代の主要港にして海軍基地だったネオーリオン港があった。オスマン時代初期にはチュフトカプ(Çıfıtkapı 「ヘブライ門」の意),と呼ばれたが、現代ではバフチェカプ(Bahçekapı 「庭門」の意)と呼ばれている。ピサ人地区の東端は、この門のすこし東側にあった。 12世紀には、ここから東がジェノヴァ人地区となっていた。ビザンツ帝国が彼らにその権利を与えた際の特許状には、さらに2つの門の名が記されている。ポルタ・ボヌ(Porta Bonu 「ボヌス(Bonus)の門」の意、おそらくギリシア語のΠόρτα Bώνουの訳)と、ポルタ・ヴェテリス・レクトリス (Porta Veteris Rectoris 「老院長の門」の意)である。この2つは、ボヌス修道院長と呼ばれたような誰か氏らの人物から名をとった同一の門であった可能性も高い。所在地は、現在のシルケジ地区の中であった。 金角湾の城壁で最後の門が、エウゲニオスの門 (Πόρτα τοῦ Ἐυγενίου, Porta tou Eugeniou) である。その先は、プロスフォリオン海岸(Prosphorion)と呼ばれた。エウゲニオスの門は、4世紀に建設され金角湾の防鎖の南端を繋いでいたエウゲニオスの塔もしくはケンテナリオスの塔と関係があるとされている。またエウゲニオスの門は大理石で覆われていることから、マルマロポルタ (Μαρμαροπόρτα 「大理石門」の意)という別名もある。またこの門には、ローマ皇帝ユリアヌスの像も置かれていた。オスマン時代のヤルキュシュキュ・カプス (Yalıköşkü Kapısı)と同じものとされているが、1871年に解体された。
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