配電統制に先駆けた事業統合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 14:54 UTC 版)
「中部配電」の記事における「配電統制に先駆けた事業統合」の解説
1935年(昭和10年)、政府内において発電・送電事業を国家が管理するという「電力国家管理政策」の具体案作成が始まった。この動きは1938年(昭和13年)の「電力管理法」公布と翌1939年(昭和14年)の電力国家管理の主体となる特殊会社日本発送電設立へと流れていく。この動きに反発した東邦電力は自社を核とした地域的統合という対抗策を進め1937年(昭和12年)に傘下の合同電気・中部電力合併に踏み切った。地域的統合は同年長野県にも波及し、長野電灯と信濃電気の合併によって長野電気が発足、諏訪電気は安曇電気を合併し信州電気となった。 電力国家管理の議論が動く中、逓信省は当時国家管理の対象外として想定されていた配電事業についても整理を図るべく、1937年6月全国の主要電気事業者に対して隣接する小規模電気事業を統合するよう勧告した。この勧告に従い以後全国規模で小規模事業の統合が活発化する。東邦電力でも中部から九州にまたがる各地域で事業統合を続けたほか、1938年(昭和13年)には岐阜県内の一部地域を分割した上で東濃地方から長野県木曽地方にかけての中小事業を合同して傍系会社中部合同電気を立ち上げた。また傍系会社の三河水力電気を中心に三遠南信山間部の事業を統合した中央電力も1938年に設立している。他に東京電灯が静岡県、長野電気・信州電気・伊那電気鉄道が長野県でそれぞれ隣接小規模事業を統合した。 1939年4月、電力国家管理の主体として国策会社日本発送電が発足した。設立に際し、会社を挙げて日本発送電に合流した大同電力の事業をそのまま継承したほか、全国の事業者から主要火力発電設備と主要送電・変電設備の現物出資を受けている。同社の主たる業務は、自社発電所の発生電力ならびに水力発電所を持つ発電会社から買い入れた電力を配電事業者や一部大口電力需要家へと供給することにあった。翌1940年(昭和15年)になると、日中戦争長期化という情勢下での総力戦体制構築の一環として国家管理体制を強化する動きが始まり、既設の主要水力発電設備その他を日本発送電へ帰属させ、配電事業も地域別に国策配電会社を新設して既存電気事業者を解体するという方針が定められた。 配電統制の方針については、1940年9月に閣議決定された第二次電力国策要綱にて全国を数地区に分けて地区ごとに配電会社を新設、これに地区内の全配電事業を統合するという方針が定められた。逓信省での検討の結果、10月になり地区数は8と決められ、そのうち中部地区は愛知・岐阜・三重・静岡・長野の5県に富山・石川・福井の北陸3県を加えた8県からなるものとされた。翌1941年(昭和16年)4月には「配電事業統合要綱」が決定され、まず全国を8地区に分かち各地区の主要配電事業者に地区ごとの配電会社を設立させてこれに統合(第一次統合)、その後各配電会社に地区内の残余事業を統合させる(第二次統合)、という二段階の統合手続きが定められた。 配電統合の方針確定に伴って1941年5月中部地区主要事業者の代表が集まって設立準備委員会が立ち上げられた。これに加わった事業者は静岡市・伊那電気鉄道・揖斐川電気工業・日本電力・東邦電力・中央電力・中央電気・中部合同電気・長野電気・矢作水力・信州電気の11社に北陸3県の金沢市(市営事業経営)・日本海電気・京都電灯を加えた計14社である。しかし日本海電気社長の山田昌作は早くから北陸地区の独立を主張して運動しており、山田の主導と名古屋逓信局の督励によって日本海電気・高岡電灯・金沢電気軌道など北陸地区計12社の合併手続きが当時別個に進行中であった。合同による新会社北陸合同電気は同年8月1日付で発足する。直後に中部地区を暫定的に分割(全国9地区化)して北陸3県にも配電会社(北陸配電)を立ち上げるという方向に当局の方針が修正され、これに従い北陸合同電気と金沢市・京都電灯は中部地区の設立準備委員会から脱退した。
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