造語の誕生
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起源については諸説あり、タレントの九十九一を発端とする説、音楽プロデューサーの立川直樹を介して広まったとする説、タレントのタモリが九十九に向けた言葉が発端とする説、漫画家のいしかわじゅんが創作したものにタモリが乗じたとする説などがある。このうち立川説については詳細は定かではないが、タモリ説については1978年1月に『タモリのオールナイトニッポン』において発信されたのが始まりとされる。評論家の小林信彦は1982年1月に出版した『笑学百科』の中で次のように記している。 活字にしたのは、ぼくが最初かもしれないが、ぼくの知る限りでは、深夜放送のタモリが用いていた。「長野県―暗いところですな、これは」という調子で、東北から信越=暗い土地大阪=明るい土地といった、おおざっぱな区分けがあり、そこの出身者は、「根が暗い……」「根が明るい……」と判別される。 — 小林信彦 小林によると「根が明るい」という表現はごくありふれたものだったが、「根が暗い」という表現は珍しさがあった。さらにタモリが「根」を「値」のように発音していたこともおかしさを倍増させた。デビュー当時のタモリは劇作家の寺山修司の物真似を得意としており、この俗語についても寺山をはじめとした前衛演劇の関係者やフォークシンガーに向けられたものともいわれる。 ジャーナリストの榊原昭二は『月刊言語』1985年1月号の中で、著述家の難波田紀夫の説として以下の内容を紹介している。それによると、いしかわが発信したことが端緒となり、1976年に『週刊プレイボーイ』誌上の対談においてさくまあきら達により九十九に対してレッテル貼りが行われた。その後、1980年にタモリが松岡正剛との共著で『愛の傾向と対策』を刊行した際、ネクラを頻繁に話題にしたことからブームとなった、というものである。 九十九本人は「さくまあきらっていうやつが、僕を罠にはめたんです。『本を出すからインタビュー頼む』って言うから行ってやったらあの通り」と発言している。ただし、この発言は『週刊プレイボーイ』の対談を指すのか、1982年にさくまや堀井雄二らの共著で『オレたちネクラ族』が刊行されたことを指すのかは定かではない。なお、九十九はこの俗語について「ダサい、調子乗り、陰気、センスの悪さ、地方のにおい」など様々な要素を含んだものであり、冗談や言葉の遊びのひとつと解釈している。 その後もタモリは対義語のネアカと共に盛んに用いて拡散させた。やがて、その軽さや、他者の性質を単純に二分化できる便利さも相まって1982年の流行語となった。言葉の解釈についてタモリは1984年に行われたジャーナリストの筑紫哲也との対談の中で次のように評している。タモリによれば芸能界入り以降、人を見分ける基準に困っていた中で発見したのが「ネクラ・ネアカ」の二分化だったとしている。この場合のネクラは「表面的には明るく見えるが実は暗さを抱える、その反対に表面的には暗く見えるが根の部分では明るい」という意味で、外観と内実のギャップを示す言葉となる。 根が明るいやつは、もうオレは付き合う必要はない。根が明るいやつは、なぜいいのかと言うと、なんかグワーッとあった時に、正面から対決しない。必ずサイドステップを踏んで、いったん受け流したりする。暗いやつというのは真正面から、四角のものは四角に見るので、力尽きちゃったり、あるいは悲観しちゃったりなんかする。(中略)でもサイドステップを肝心な時に一歩出せれば、四角なものもちがう面が見えてくるんじゃないか。そういう時に、いったん受け流したりして危機を乗り越えたりなんかする力強さが出るし、そういう男だと、絶対に人間関係もうまくいく。 — タモリ 『現代用語の基礎知識1983』にも掲載されたが、ここでは「奥深そうな、物知りそうな、無口の人」、鷹橋信夫著の『昭和世相流行語辞典』では「うわべは明るく陽気にふるまっていても本質は暗い性格の持ち主のこと」と記されている。なお、『現代用語』では「ねくら族」なる派生語とその対義語にあたる「ひょうきん族」、榊原著の『現代世相語辞典』では「根っから暗い気分の人」とのみ記され、ネクラの母親を意味する「ネブクロ」なる派生語を紹介している。
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