近江大津宮錦織遺跡とは? わかりやすく解説

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近江大津宮錦織遺跡

名称: 近江大津宮錦織遺跡
ふりがな おうみおおつきゅうにしごりいせき
種別 史跡
種別2:
都道府県 滋賀県
市区町村 大津市錦織一丁目二丁目
管理団体
指定年月日 1979.07.02(昭和54.07.02)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日 平成19.07.26
解説文: S54-6-040近江大津宮[[錦織]にしごり]遺跡.txt: 近江大津宮は、天智天皇宮都であり、同天皇6年3月遷都実行された。天智天皇7年中大皇子天智天皇としてこの近江大津宮即位し同年にはすでに内裏濱臺が、8年には大蔵9年には宮門10年には新臺に漏尅、西小殿、内裏佛殿内裏西殿、新宮大炊省などの諸建物記録見え宮都整備進展がたどれる。天智天皇10年12月天皇崩御があり、続いて起る壬申乱による大友皇子の自縊とともに廃都となる。したがって近江大津宮6年間という短期間宮城であり、宮城内の諸施設建設記録見えるものの、その京域については濱臺の名が見えるに過ぎず関連建物建設條坊施行については全く記事見ないだけに、実質的な整備はなお、十分ではなかったものと考えられている。
 この近江大津宮所在地については、記録伝承を欠くこともあって、今日大津市錦織町比定する説をはじめ南滋賀町、滋賀里町にあてる諸説があり、未だに帰結するところ見ない
 昭和49年以来滋賀県教育委員会数次わたって実施して来た大津市錦織2丁目周辺発掘調査により、近江大津宮推定地一つである錦織2丁目御所内地域の一劃滋賀宮顕彰碑建碑地を中心に天智天皇のころに属す遺物をはじめ、雄大な規模斉整配置をもつ諸遺構発見された。建物は、東西4間以上、南北1間上の門跡をはじめ、この門から東にのびる回廊を6間まで確認しさらに東に及ぶことが知られている。この回廊の5間目から直角に北へ9間以上のびる柵が連なり、門・回廊・柵で囲まれる範囲広場となっている。この地域北方錦織1丁目字御所大平地域でも、東西4間以上、南北1間上の建物発見され、その西縁から西方へ柵が2間のび、その西端南北長く7間以上連なる柵に連なる建物の南には広場をつくり、その南に、南北の柵から東へ行く5間以上の柵が見られる
 錦織1・2丁目両所見られるこれらの遺構は共に建物軸を真北にとり、相互に関連する形で整然と配置され巨大な柱穴と掘方を伴う柵列のあり方などを通じて考えるならば、一種官衙構造であることを示している。遺物時期天智天皇ころにあること、遺構構造が宮の一画暗示することからすれば、この遺跡近江大津宮重要な一部と見ることも可能である。ただ、大津市南滋賀町、滋賀里町等の擬定地については十分な調査なされていない現在、錦織地区の本遺跡についてとりあえ明確な遺構をもつ地域とりあげ保存をはかるものである。
H10-12-043[[近江大津宮錦織遺跡]おうみおおつみやにしごりいせき].txt: 近江大津宮は、大津市西部JR西大津駅北方500メートル位置し天智6年667)、天智天皇により飛鳥の地から遷都された都である。しかし、壬申の乱672年)によって近江朝廷側が敗れ、この宮は廃棄された。この大津宮は、『日本書紀』に「浜台大蔵宮門朝庭、殿、漏刻台、内裏仏殿内裏西殿、大蔵省第三倉、新宮大炊」等の宮にかかわる建物等記載があるが、その実態はほとんど明らかではなかった。昭和49年滋賀県教育委員会による発掘調査により、当地一帯で宮の中心部分の一部確認されるようになり、内裏正殿南門回廊・塀・倉等が検出された。
 指定は、当該地が住宅密集地であるため、保存のできる場所から実施しており、今回は、南門遺構所在する地域追加して指定し保存図ろうとするものである
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