近代の黒神と瀬戸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 02:50 UTC 版)
江戸時代になり黒神は大隅国大隅郡桜島郷(外城)のうちとなった。黒神は「黒上」とも書かれていた。村高は「天保郷帳」では48石余、「三州御治世要覧」では138石余、「旧高旧領取調帳」では108石余であった。 瀬戸村も江戸時代より見えるが、薩摩藩の地誌である「三国名勝図会」には脇村(現在の有村町の一部)のうちであったとされ、脇村から分村し「瀬戸村」として成立したとされる。延享年間の「三州御治世要覧」に見えるのが初見であり村高は105石余であった。また、「旧高旧領取調帳」では80石余であった。 安永8年(1779年)に発生した安永大噴火では甚大な被害を呈し、瀬戸では火山弾が飛来し家が炎上したとされ、降灰は約4メートルにも達した。旧南林寺(現在の鹿児島市南林寺町)境内の「桜島燃亡霊碑」には瀬戸村の死者は46名、黒神村の死者は5名であると記録されている。黒神村や脇村、有村、古里村の住民は瀬戸海峡を渡船して近隣の垂水や敷根、福山などに避難した。寛政12年(1800年)には赤水村と黒神村から25名が新島に移住した。 黒神には宝暦年間に温泉場が開設され、塩湯と鉄湯があった。「三国名勝図会」には黒神村(黒上村とも)に存在していた温泉について以下のように述べている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}黒上温泉 黒上村にあり、涌出の年月詳ならず、是亦潮湯にして、能諸病を治す、是温泉の所在は、人家より頗る近し、故に浴者の爲に便利なり、是を以て近来浴場に往く者、古里より甚た多しとかや、 —三国名勝図会巻之四十三 文久3年(1863年)に鹿児島湾で勃発した薩英戦争では大隅半島との海峡に位置する瀬戸は軍事要地とされ、砲台は設置されなかったものの警備の武士が配備された。また、江戸時代後期には瀬戸に造船所が設置され、薩摩藩によって洋式軍艦である昇平丸などが造船された。 1887年(明治20年)4月2日には「 鹿兒島縣下分郡ノ件」(明治20年勅令第7号)により大隅郡が南北に分割され、黒神村及び瀬戸村は北大隅郡の所属となった。
※この「近代の黒神と瀬戸」の解説は、「黒神町」の解説の一部です。
「近代の黒神と瀬戸」を含む「黒神町」の記事については、「黒神町」の概要を参照ください。
- 近代の黒神と瀬戸のページへのリンク