近世の里
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 22:44 UTC 版)
戦国時代の文禄年間には鎌倉時代より甑島島主であった小川氏が阿多郡田布施(現在の南さつま市金峰地域)に改易され、以降甑島は島津氏の直轄支配下となり、外城制が敷かれることとなった。 江戸時代の里村は薩摩国甑島郡甑島郷(外城)のうちであり、里という地名は最も古いものでは「薩藩政要録」に里村という記述が見える。里村の村高(石高)は「旧高旧領取調帳」の記述によれば736石余であり、「三州御治世要覧」によれば728石余であった。寛文4年(1664年)の「郡村高辻帳」によれば上甑島のうち、「元禄国絵図」によれば上甑村のひとつと記載されている。江戸時代の測量家である伊能忠敬が著した「九州東海辺沿海村順」によれば、家数167軒でありそのうち薗山が16軒であったと記載されている。また、村東地区は浦浜を兼ねていた。 地頭の執務を行う屋敷である地頭仮屋は甑島郷の内に3か所に設置されていたが、そのうち1つは里村(現在の里小学校敷地)に設置されていた。地頭屋敷が置かれ、周囲に郷士が居住していた麓集落は現在の村西地区にあたり、村西地区では古代より人の生活が営まれていたとされる。慶長16年(1611年)に本田親政が甑島初代地頭に任じられた。ただし、地頭仮屋は手打(現在の下甑町手打)、中甑(現在の上甑町中甑)及び里の3箇所にあり、地頭の本拠がいずれであったか定かでないとされる。 江戸時代後期に薩摩藩が編纂した地誌である『三国名勝図会』では里の東浦について挿絵と共に以下のように記述している。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}東浦 上甑村里にあり、當村の北面にして、舟舶泊繋の海灣なり、上甑に渡る者、爰に舟を入る、俗に里村の入江といふ、此所海形灣曲をなすこと少許にして、石堤を築き、泊繋に便りす、往古小川氏此島の領主たりし時、此村に居住す、眺望の景色殊によし、 寛永10年(1633年)の「島津家列朝制度」収録の江戸幕府諸国巡検使への御答書には里村に狼煙による通信を行う火立番所が置かれたと記載されており、宝永10年(1713年)の御答書には薩摩藩内に24か所設置されている海の要津に置かれる監視所である津口番所の1つとして里村に津口番所が設置されていると記載されている。 明治4年には廃藩置県が行われ薩摩藩は鹿児島県となり、明治5年には外城制に代わり戸長制度が導入された。1884年(明治17年)には上甑島及び中甑島の全域に当たる中甑村、中野村、江石村、平良村、小島村、瀬上村、桑之浦村、里村の区域を管轄する戸長役場が中甑に設置された。
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