近世の久志
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 22:22 UTC 版)
江戸時代には薩摩国久志秋目郷(外城)のうちであった。江戸時代初期には久志村1村で久志郷を構成していたが、明暦3年(1657年)頃に秋目郷と久志郷が合併し久志秋目郷となり、地頭館は久志に置かれた。明治2年からは久志秋目、坊泊、鹿籠の3郷が合併し南方郷が発足し久志村は南方郷に所属することとなった。村高は「郡村高辻帳」では310石余、「天保郷帳」では310石余、「旧高旧領取調帳」では535石余であったという。また伊能忠敬が著した「九州東海辺沿海村順」には家数が438戸あり、そのうち本村が200戸、博多浦48戸、今村浜40戸、池15戸、塩屋57戸、末柏60戸、平崎18戸であったと記録されている。 江戸時代後期に薩摩藩が編纂した地誌である『三国名勝図会』に挿絵付きで久志港が収録されており、久志港について船が安全に停泊することができ、天然の良港であると記載している。全文は以下のとおりである。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}久志港 久志村にあり、此港西より東に入たる海灣にて、内外の二港を分つ、内港の周廻凡そ三十五町、内港の口に當り、北岸よりは、宮崎といへる嵓觜、長さ四町許突出し、其南岸よりは、小島二ツ接連し、港口を𢫵蔽す、港口の横幅四五町あり、港裏の北濱を、今村濱といひ、南岸を博多浦といふ、是を内港とす、又内港の口より八町許海口に當り、大嵓觜左右より突出して稍相向ひ、亦海口を𢫵蔽す、北岸にあるを立目崎といひ、南岸にあるを網代といふ、立目崎の内を馬込浦と號す、網代の邊は群魚の聚集する所にして、漁釣に利ありとぞ、是を外港とす、二層の港内、共に舟舶の安泊に便にして、實に天然の良港なり、往古は海外の諸蕃爰に來て交易をなし、今も唐土の舟舶漂着の時も、泊繋の所とせり、人家港内の岸に臨て聚落をなし、且海岸所々に神祠佛閣あり、林木靄然として、景色殊勝なり、 —三国名勝図会巻之二十七 久志は海路の要点であり、周囲を山に囲まれ陸路は隔絶されていることから久志村1村で1郷を置かれたと考えられている。海路の要点であったことから久志には鶴食崎と陣ケ岳に異国船の監視を行う遠見番所が設置されており、弘化3年ごろに藩主島津斉彬の命により薩摩藩領の重要地に砲台が建造されることとなり、嘉永年間頃に久志に砲台が建造された。 元和6年(1620年)にはスペインの船が久志のことと推定されている「コチ」に入港し、キリスト教の宣教師9名が上陸していると記録されている。 延宝8年(1680年)に調査された「諸浦御奉行並万上納物之定」によると浦に対する魚の課税について久志浦に対しては120匁が課されていたという。海に面している久志村は主漁従農の形態にあり、平常時は漁業を営み、戦時は水軍として活躍したという。
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