近世の久見崎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 08:49 UTC 版)
江戸時代には薩摩国薩摩郡高江郷(外城)のうちであった。村高は「御秘文雑集」及び「天保郷帳」では240石余、「三州御治世要覧」では292石余、「旧高旧領取調帳」では343石余であった。 江戸時代には対岸の京泊が商港として栄えた一方で、久見崎は軍港・造船場として栄えた。寛永年間に水引郷星原にあった船手と呼ばれる藩船の管理や貿易の取り締まりを行う役所が当地に移され、薩摩藩より船奉行及び久見崎奉行が置かれていた。久見崎には御船手に関する建物として庁舎1棟、米倉2棟、金庫1棟、船具倉大1棟があり、向田から川内川を下ってきた川船は久見崎で貨物を載せ替え長崎や下関へ廻航していた。 江戸時代後期に薩摩藩によって編纂された「三国名勝図会」には久見崎について以下のように記述されている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}久見崎 久見崎は、當邑の北西端にして、即ち其一村の名とす、西面は大海に臨み、北面は千臺川に沿ひ、海口こゝに在て、河岸に湾曲をなし、官船停泊の要津なり、是を久見崎船手といひ、水引京泊に對岸す、流に従つて河景を窮るもの、此地を以て最勝とす、 —三国名勝図会巻十一 また、川内川は大口や宮之城方面の物資の輸送路として重要な水路となっていた。当地には造船工場があり、幕末には軍艦春日丸が建造されたとされている。 歌人であった与謝野鉄幹は以下のように詠んでいる。 船五つ久見崎につく乗るは皆こころに持ちぬ新しき夢 —与謝野鉄幹
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