越中時代とは? わかりやすく解説

越中時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 10:05 UTC 版)

佐々成政」の記事における「越中時代」の解説

天正8年1580年以降神保長住助勢として一向一揆および上杉景勝対す最前線であった越中国平定に関わった。同年秋に治水事業にも着手し富山城下を守るために現在の富山市内を流れ常願寺川沿いに「佐々堤」と呼ばれる堤防築いている。 天正9年1581年正月下旬から2月下旬頃、成政は富山城入城する。成政のもとに神保越中勢が編成された。この時、神保長住が成政の指揮下となる。 天正10年1582年3月長住旧臣小島職鎮唐人親広らに富山城急襲され、捕らえられる事件発生する間もなく織田軍の反攻助けられたが、長住失脚し追放された。長住失脚したことにより成政は越中国一国守護となり、富山城居城として大規模な改修行なったこの頃が成政の絶頂期であった越中支配実態不明な点が多い。家臣対す知行宛行安堵寺社領寄進安堵に関する発給文書偽文書含めて25点前後が確認されている。知行宛行寺領安堵いずれも「石」高表示ではなく、「俵」高表示によってなされているのが特徴である。対一向一揆、対上杉氏対す臨戦態勢の中で苛酷な切り取り支配が行われていたことから、「石」高表示による安定的な検地とは性質異なることが窺える天正10年1582年6月本能寺の変発生する。この時点で、成政の属す北陸方面軍上杉軍越中最後拠点である魚津城を3ヶ月攻囲の末に攻略したばかりであり、あと少しで上杉景勝本城である春日山城に迫る勢いであった(魚津城の戦い)。このクーデターによって北陸方面諸将動揺し、その対応に足並みが揃わなかった。変報が届くと、北陸方面の各将はそれぞれの領地引き揚げたため上杉軍反撃遭い、成政はその防戦身動き取れなかった。一方、成政と同じく北陸方面軍属す柴田勝家上洛図ったが、対峙していた毛利輝元和睦し中国大返しによっていち早く畿内戻った羽柴秀吉明智光秀討ち果たす手柄立てられ山崎の戦い)、先を越された。 天正10年1582年6月27日清洲会議において勝家秀吉との織田家実権争い表面化すると、成政は勝家方についた。清洲会議領地再配分では越中国安堵された。この頃本能寺の変の後一時的に空城となった魚津城には須田満親中心とする上杉勢入り越中東部における失地奪還していたが、成政は再び魚津城攻めて上杉方から奪還している。

※この「越中時代」の解説は、「佐々成政」の解説の一部です。
「越中時代」を含む「佐々成政」の記事については、「佐々成政」の概要を参照ください。

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