越中時代
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天正8年(1580年)以降、神保長住の助勢として一向一揆および上杉景勝に対する最前線であった越中国平定に関わった。同年秋には治水事業にも着手し、富山城下を守るために現在の富山市内を流れる常願寺川沿いに「佐々堤」と呼ばれる堤防を築いている。 天正9年(1581年)正月下旬から2月下旬頃、成政は富山城に入城する。成政のもとに神保ら越中勢が編成された。この時、神保長住が成政の指揮下となる。 天正10年(1582年)3月、長住が旧臣の小島職鎮、唐人親広らに富山城を急襲され、捕らえられる事件が発生する。間もなく織田軍の反攻で助けられたが、長住は失脚し、追放された。長住が失脚したことにより成政は越中国一国守護となり、富山城を居城として大規模な改修を行なった。この頃が成政の絶頂期であった。 越中支配の実態は不明な点が多い。家臣に対する知行宛行・安堵、寺社領の寄進・安堵に関する発給文書は偽文書を含めて25点前後が確認されている。知行宛行、寺領安堵いずれも「石」高表示ではなく、「俵」高表示によってなされているのが特徴である。対一向一揆、対上杉氏に対する臨戦態勢の中で苛酷な「切り取り」支配が行われていたことから、「石」高表示による安定的な検地とは性質が異なることが窺える。 天正10年(1582年)6月、本能寺の変が発生する。この時点で、成政の属する北陸方面軍は上杉軍の越中最後の拠点である魚津城を3ヶ月の攻囲の末に攻略したばかりであり、あと少しで上杉景勝の本城である春日山城に迫る勢いであった(魚津城の戦い)。このクーデターによって北陸方面の諸将は動揺し、その対応に足並みが揃わなかった。変報が届くと、北陸方面の各将はそれぞれの領地に引き揚げたため上杉軍の反撃に遭い、成政はその防戦で身動きが取れなかった。一方、成政と同じく北陸方面軍に属する柴田勝家は上洛を図ったが、対峙していた毛利輝元と和睦して中国大返しによっていち早く畿内に戻った羽柴秀吉に明智光秀を討ち果たす手柄を立てられ(山崎の戦い)、先を越された。 天正10年(1582年)6月27日、清洲会議において勝家と秀吉との織田家の実権争いが表面化すると、成政は勝家方についた。清洲会議の領地再配分では越中国を安堵された。この頃、本能寺の変の後一時的に空城となった魚津城には須田満親を中心とする上杉勢が入り、越中東部における失地を奪還していたが、成政は再び魚津城を攻めて上杉方から奪還している。
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