赤城大沼用水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 22:41 UTC 版)
赤城大沼から自然に流出する川は北西端の沼尾川だけだが、赤城山の外輪山の下を穿って南斜面の白川(赤城白川)へ導水する灌漑用水路がある。これを赤城大沼用水という。 広大な火山性の裾野をもつ赤城山の山麓では、河川は伏流水となってしまい、常に水不足に悩まされてきた。江戸時代には水を巡って村と村の争議が絶えなかった。反面、常態的に枯れ川の白川は大雨の際の流下能力は小さく、集中豪雨などでは容易に氾濫した。1910年(明治43年)にも白川扇状地に洪水被害をもたらしていた。 赤城大沼から水を引水するという構想は江戸時代末期からあり、赤城山南西山麓の原之郷(旧富士見村)の名主、船津伝次平に遡るという。その構想は大正時代に具現化し、1915年(大正4年)に木村與作(木村与作)によって用水建設の申請が行われた。しかし当時は県知事による許可が得られなかった。その後、1935年(昭和10年)にも白川の洪水が発生している。 この事業はのちに樺沢政吉(椛沢政吉)によって継承され、1941年(昭和16年)に着工にこぎつけた。しかし太平洋戦争の時局下のため建設資材の調達が滞り、また山の下を通る全長約2200メートルの隧道の工事も軟弱な地盤や湧水などにより技術的に困難だった。トンネルが完成したのは1956年(昭和31年)、用水路の竣工・通水は1957年(昭和32年)となった。 この用水のため、赤城大沼の湖水面は約2メートル水位をあげられた。そして北西の沼尻(湖尻)に設けられた頭首工から毎秒0.81トンの割合で取水し、地蔵岳の北西の丘陵(新坂平)を隧道で通り抜け、白川に導かれる。その後、白川に建設された取水口から用水路を通って南西麓へ導かれ、標高499メートル地点と標高450メートル地点に設けられた円筒分水工で4水系に分かれ、約360ヘクタールの土地で灌漑に供されている。この用水整備によって耕作地は大幅に増え、水田が増加したほか、一帯は従来の養蚕からウシ・ブタを飼育する酪農やホウレンソウ、キャベツ、サトイモ、ダイコンなどの野菜栽培にシフトした。 用水は完成から半世紀あまりが経過し、老朽化が懸念されている。部分的には石積の崩落や漏水もあるため、群馬県の事業として修繕や補修が行われている。 取水口である火口瀬付近には、1978年(昭和53年)に樺沢政吉の顕彰碑が設置された。
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