象、船に乗る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 03:03 UTC 版)
幕府は、享保年間、長崎で通商をおこなう清国商人に象を発注した。これが将軍吉宗の要請によるものであることは注目されるが、実はそれ以前から商人のあいだで噂になっていたようである。嘉永6年(1853年)に林復斎らが編纂した『通航一覧』には第38番東京(ベトナム北部、ダンゴァイ、鄭主支配地)の船主である呉子明の書簡に以下のような記載がある。 『通航一覧』 蒙問委帯小象、可以帯来否、但此獣出在.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}暹羅(せんら)地方、唐山各省並無、若蒙諭委帯、遵依帯来進上。 17世紀以降のベトナムでは、呉子明の故郷トンキン(ダンゴァイ)で飼育された象のほとんどは官象、すなわち国家管理下におかれて朝廷の重要な行幸・行啓、宗教的ないし外交的諸行事に用いられる象であったのに対し、広南国(ベトナム中部、ダンチォン、阮主支配地)では象を捕獲する習慣があり、象や象牙の献上、商いが広汎に行われていた。ところが、呉子明が幕府に薦めた象はダンゴァイでもダンチォンでもなく、「暹羅地方」、すなわち現在のタイ王国(シャム)であった。このことは、呉子明にとって、ダンチォンからではなく外国であるシャムから購入した方が好都合であったことを物語っている。 象は結局この2年後に享保13年第15番唐船の船主、鄭大威によって運ばれた。近藤重蔵が寛政年間に執筆した『安南紀略藁』に、以下のような記載がある。 「安南紀略藁」 鄭大威ガ索渡広南産ノ象牡牝二疋享保十三申年六月十三日長崎入津。 鄭大威の運んだ象の値段の詳細は不明であるが、『通航一覧』収載の呉子明の手紙にはシャムから日本までの費用が造船費用1万両あまり、雑費2万両あまりと見積もられており、象1頭につき1万5百両ほどである。ベトナム国内での売買の相場が1頭につき20両程度と考えられるので利益は莫大であった。また、オスとメス1頭ずつ2頭としたのは、日本国内で繁殖させる計画があったことをうかがわせる。 近藤重蔵『安南紀略藁』所収『安南国漂流記』によれば、象を運んだ船は長さ38.8m、幅6.06m、深さ4.24mのジャンク(「南京造り之船」)で象には7.88m×3.3mのスペースがあたえられた。象はそのなかで37日間生活したという。同書には人間だけが乗船したジャンクがベトナムから長崎まで要した日数が27日という記録も併記されている。象を載せた船の船体は大きく、その分時間がかかったことをうかがわせる。
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