警察官殉職と取締強化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 23:35 UTC 版)
学生らが掲げた「我々の授業料は、父や母の汗の結晶である」という言葉は大人たちに好評で、はじめの1ヶ月間程は市井でもカンパに応じる者が多く、世論は概して学生側に同情的であった。規制にあたった警察側でも、日大当局の腐敗に対して立ち上がった学生らを『学生さん』と呼んで同情する雰囲気があり、大学進学率が2割に満たなかった当時においてエリートに属する学生らを慮って『奴らの将来を考えてやれ』と力説する幹部もいた。 一方、日大全共闘はストライキ維持のために夏休み期間中の自主登校を学生らに呼びかけた。バリケードの中では当初厳格な規律が確立されていたが、籠城が長期化するにつれて次第に弛緩していき、また8月頃から中核派などのセクトの影響も見られるようになり、学生の間で意識の乖離が進んだ。 夏休み明けを控えた8月24日、大学当局は「学生諸君の集会、出版物配布の自由、処分撤回、経理の公開などを中心とする主要な要求は認める」として妥協案を出した。これに対して日大全共闘はあくまで大衆団交の実現を要求した。 1968年9月4日未明、東京地方裁判所の仮執行処分に基づき機動隊などによる強制排除が行われた際、経済学部本館のバリケード封鎖解除に出動していた機動隊の巡査部長が、学生が校舎4階から落とした約16kgのコンクリート片を頭部に受けて重傷を負い、29日に死亡した。警察にとって学園紛争で初の死者、公安事件としては戦後3人目の犠牲者であり、警視庁公安部・村上健警視正は「警視庁はこれまで学生側にも言い分があると思っていたが、もうこれからは手加減しない」と記者会見で憤りをあらわにした。学生に対する怒りは、検挙よりも解散を重視していた警察の方針を徹底的な取締へ転換させた。 この機動隊による強制排除は、学園正常化に成功した国際基督教大学や芝浦工業大学の前例に倣ったものと見られるが、大学当局が改善案を提起していながら事前の話し合いや予告もなく警察の手を借りたことは却って反発を生み、日大全共闘は他大学の各セクトによる「外人部隊」の協力を得て機動隊退去後の経済学部・法学部校舎を再占拠した。その後も機動隊出動と学生の事前退避・再占拠が繰り返され、9月12日には神保町近辺で大規模な衝突が起こった。 これらの衝突で被害を受けた付近の商店や住民は学生らに対する態度を硬化させ、日大全共闘を批判するメディアが増え始めた。
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