日大紛争とは? わかりやすく解説

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日大紛争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/28 16:15 UTC 版)

日大紛争(にちだいふんそう)は、1968年(昭和43年)から1969年(昭和44年)にかけて続いた日本大学における大学紛争である。学生運動の立場からは日大闘争と呼ばれる[1]


注釈

  1. ^ 1958年に会頭就任[5]
  2. ^ 日大では教員の地位が低く、1962年には「日大の思想に合わない」として文理学部の教職員が放逐される、日大数学科事件が発生している[5]
  3. ^ その後、紛争で学生に占拠された各学部の建物からは、裏口入学に使われたと思しき受験番号と名前が書かれた名刺が見つかり、学生の一層の怒りをよんだ[7]
  4. ^ 監査が行われている間、3月25日に経済学部の会計課長が失踪し、28日には理工学部会計課徴収主任が自殺している[7]
  5. ^ 古田会頭の方針に反して1966年に結成された教職員組合は、厳しい制約にさらされており、後に委員長・副委員長・総務長は解雇されている[5]
  6. ^ このとき「(既存のセクトや民青などの)全学連各派には一切所属しない」という方針が学生多数の賛同のもとで決定されている[9]
  7. ^ この日行われたデモでは、芸術学部の学生が赤旗を持ち込んだが、一般学生らに拒絶されている[9]
  8. ^ 秋田らの自宅謹慎処分は解除された[9]
  9. ^ 日大の運動部学生や関東一円の系列高校に勤務する日大運動部OBの教職員などで構成された、「関東軍」と呼ばれる集団が組織された[3][10][11]
  10. ^ 日大全共闘の学生らは、「僕は11日の事件以来、ハラにサラシをまいているんですよ。なぜかって?そりゃ、ブスッと(短刀で)やられますからね」「機動隊はわれわれを殺すことを目的としないが、体育系の暴力には真実、声明の危険を感じる。奴らは何をするかわからない」と述べていたという[9]
  11. ^ それまでの大学闘争で夏休みを跨いで持続した例は少なく、学生の登校を減らして運動を減衰させようという大学当局の狙いであった[12][13]
  12. ^ 日本の男女平均値[14]
  13. ^ 最初の機動隊出動の後、警視庁は大学当局に対して「体育会系学生を紛争解決の手段に使わないこと」「当局は責任を持って学生と話し合い、紛争を円満に解決して欲しい」と異例の要請を出している[15]
  14. ^ 校舎内の書物や物品が略奪されるようになり、盗品を売って得た金が闘争に充てられた。また強姦未遂事件なども起こり、食事を作らされていた女子学生らが「女性というと無条件でめしを作らせる感覚はナンセンス」とストライキを始め、炊事は交代制になった[13]
  15. ^ 8月31日に日大当局が学生による建物6箇所の不法占拠排除を申請したものであり、9月2日に東京地裁が許可を出した[18]
  16. ^ 全共闘が占拠していた校舎には、「投石で警官に命中させたものにはいこい一本。十人に命中させるか重傷を負わせたものにはピース一本」と書かれた標語があった[19]
  17. ^ これに対して全共闘系学生はシュプレヒコールをあげて「インターナショナル」を歌ったが、会場には繰り返し再度の団交を確約させようとする日大全共闘に冷ややかな者や、逆に手ぬるいと感じる急進的活動家もいて、集まった学生も一枚岩ではなかった[22]
  18. ^ 11月18日までに授業が再開されなかった場合、日大の全4年生の留年が決定的になるといわれていた[23]
  19. ^ この体育会系学生は、紛争初期に大学批判のビラをまいていた文学クラブの部室を訪れ、「君たちのいいたいことはわかる。しかし、その方法を誤らないでくれ」と述べており、上級生の横暴を憎み運動部の悪習をやめさせようとしていた[25][26]
  20. ^ 日大救援会によると、1969年5月までに日大紛争で逮捕された学生は997人、重軽傷者は失明3人を含む7009人。紛争の前後に退学した日大生は、約1万人に及ぶとされる[30]

出典

  1. ^ “日大闘争の記録「日大闘争の記録」制作実行委員会”. 日大全共闘農闘委. http://www.z930.com/kiroku/kiroku01.html 
  2. ^ “1968年全共闘だった時代”. 日大闘争年表. (年月日). http://www.z930.com/nenpyou.html 
  3. ^ a b 荒川 2016.
  4. ^ 小熊 2009, p. 550.
  5. ^ a b c d e 小熊 2009, pp. 551–562.
  6. ^ a b c d “日大闘争年表 (増補完全版) 「新版・叛逆のバリケード」”. 三一書房. (2008年9月30日刊行). http://www.geocities.jp/nichidainoutoui_1968/nenpyou-hanbari.html [リンク切れ][要ページ番号]
  7. ^ a b c d e 小熊 2009, pp. 562–563.
  8. ^ a b c 小熊 2009, pp. 564–575.
  9. ^ a b c d e f g h i j k l 小熊 2009, pp. 575–586.
  10. ^ a b 第84回国会 63 学校法人日本大学における学生の自治・学生対策等に関する質問主意書”. www.shugiin.go.jp. 2021年1月14日閲覧。
  11. ^ 日大、授業を外部業者に丸投げ疑惑…講師を一斉雇い止め、違法訴え訴訟準備”. ビジネスジャーナル. 株式会社サイゾー (2018年5月31日). 2021年8月22日閲覧。
  12. ^ a b c d e f 小熊 2009, pp. 587–599.
  13. ^ a b c 小熊 2009, pp. 599–612.
  14. ^ 第3章 青少年の教育 第1節学校教育人口(第5図)”. www8.cao.go.jp. 平成18年版青少年白書. 内閣府. 2021年8月25日閲覧。
  15. ^ 小熊 2009, p. 596.
  16. ^ a b c d e 産経新聞取材班, ed (2009-11-22). 総括せよ!さらば革命的世代 40年前、キャンパスで何があったか. 産経新聞出版. pp. 22-23、73-84. ISBN 978-4819110778 
  17. ^ a b c 小熊 2009, pp. 613–620.
  18. ^ a b 小熊 2009, pp. 616–620.
  19. ^ 小熊 2009, p. 635.
  20. ^ 小熊 2009, p. 634.
  21. ^ 小熊 2009, pp. 621–628.
  22. ^ a b c 小熊 2009, pp. 629–634.
  23. ^ a b c d e f g h 小熊 2009, pp. 634–643.
  24. ^ 朝日新聞2009.06.22 『(ニッポン人脈記)反逆の時を生きて:2 勝ったと思った、風雲児』秋田明大インタビュー
  25. ^ 小熊 2009, p. 588.
  26. ^ 小熊 2009, pp. 641–642.
  27. ^ 小熊 2009, pp. 650–660.
  28. ^ 小熊 2009, pp. 643–650.
  29. ^ a b c 小熊 2009, pp. 643–664.
  30. ^ a b 小熊 2009, pp. 650–664.
  31. ^ 『朝日ジャーナル』第24巻、第9~13号、朝日新聞社、1982年、p43
  32. ^ 横領1億5千万円 日大事件 ブローカーに一億円 日大関係含む十人に渡す『朝日新聞』1969年(昭和44年)11月3日朝刊 12版 15面
  33. ^ 横領で起訴 日大事件『朝日新聞』1969年(昭和44年)11月8日夕刊 3版 10面


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