誕生から舞台俳優とは? わかりやすく解説

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誕生から舞台俳優

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 01:49 UTC 版)

志村喬」の記事における「誕生から舞台俳優」の解説

1905年明治38年3月12日日曜日)、兵庫県朝来郡生野町現在の朝来市生野町)に生まれる。三菱生野鉱業所冶金技師をする父・島崎毛登女(もとめ)と、母・喜与の次男として口銀谷生野鉱山社宅(甲社宅)で育つ。祖父土佐藩主・山内容堂小姓から250取り祐筆上がり鳥羽・伏見の戦いには隊長として出陣した経歴を持つ武士であった1911年明治44年)に生野尋常小学校入学、きかん気のガキ大将だったが、その反面6年通して優等生過ごした1917年大正6年)、旧制神戸一中(現兵庫県立神戸高等学校)に入学したが、その後父親宮崎単身転勤となったまた、丁度その頃志村は軽い肺病のため2年進級遅れたことから、母や兄弟と共に父のもとに合流しそれに伴い宮崎県延岡中学校(現宮崎県立延岡高等学校)へ転校する在学中は英語が得意で、文学憧れて同人雑誌加わって詩を寄稿する一方ボート部入り校内有数ボート漕ぎ名手として活躍する中学3年生の頃に母を病気亡くす。 同中学校卒業後1923年大正12年)に関西大学予科入学するが、まもなく父が退職したことから学資援助得られなくなり夜間の専門部英文科転じ大阪市水道局臨時職員として生計立てる。 この頃英文科講師劇作家豊岡佐一郎シェイクスピア研究家の坪内士行がいたことから演劇熱が芽生えはじめ、大学演劇研究会参加。さらに1928年昭和3年)には豊岡演出家頼み、自ら幹部としてアマチュア劇団七月座を結成する。しかし、芝居熱中するあまり市役所欠勤続きついにはクビとなった。そこで大学中退して本格的に役者の道を目指し七月座のプロ化図り巡業などをするが、大赤字となり失敗した大阪戻ってJOBKNHK大阪放送局)のラジオ劇声優として出演したり、厚紙切りなどで食いつないでいたが、それだけではどうしても生活が出来なかった。1930年昭和5年)に豊岡友人で、のちに東宝撮影所になった森田信義世話五月信子近代座に入り職業俳優として舞台出演する以降日本各地をはじめ、遠く上海青島天津大連釜山にまで巡業した。 しかし、この頃から同じよう芝居続いて気持ち生活態度はすさみ、演技惰性になっている自分気付いたため巡業先で一座離れ、再び大阪戻った1932年昭和7年)に剣戟新声劇や翌年旗揚げした新選座の舞台に立つが、芝居世界景気悪くなる一方だった。この頃主流になり始めたトーキー映画舞台で鍛え上げた実績生かせるかもと思い映画俳優転向決意する本人は「これまでの映画無声映画俳優美男美女相場決まっていて、私の顔ではやっていけるはずがない。しかし台詞入りトーキー映画盛んになったおかげで自分主役いかないまでも脇役出番多くなるはず」と考えたという。

※この「誕生から舞台俳優」の解説は、「志村喬」の解説の一部です。
「誕生から舞台俳優」を含む「志村喬」の記事については、「志村喬」の概要を参照ください。

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