設置と役割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 10:26 UTC 版)
天平宝字3年(759年)に唐の制度をまねて平城京に常平倉が設置され、その後存廃を繰り返しながら、大同3年(808年)3月に穀倉院として建造された。弘仁13年(822年)3月、近江国諸郡の穀十万石を運び入れ穀倉院を建造、洛中に建造された際、もともとその様な施設は建造すべきものではなかったが、近江に在する延暦寺を尊崇することで、特に建てさせた。翌14年(823年)3月京師において米が高騰したため、救貧策として、穀倉院の米穀千石を供出し、貧民に安価に売り渡した。以降、同様の救民施策に用いた。 延喜式には、以下の事項などが制定されている。 無主の位田・職田は穀倉院に移し、地子を納めさせ、穀倉院に納めた米穀は、京職の税帳に載せてこれを申告させる。 畿内諸国が納税する調銭は、調銭を勘定する日に銭数を記録し、穀倉院に移送して納めさせる。 収文が官より発行されるのを待って勘会する。 絁120匹、調綿200屯は、毎年12月官に申告し穀倉院に納める。 同院の長官は別当職であるが摂政・関白又は一上(主として左大臣)などが補任される名誉職的な公卿別当、弁官または蔵人頭の補任される四位別当(従四位)、左右大史や大外記、主税頭・主計頭が補される五位別当(従五位)があり、預・蔵人が事務処理を行なった。なお、別当職は、後述する学問料との関係か、初期の公卿別当を除き学問の家系の者が多く任命されており、賀茂保憲、安倍晴明が任命されたほか、名目上の役職となってからは、舟橋家(清原氏)・押小路家(中原氏) 両家に明経博士とともに世襲されることとなった。 天延3年(975年)、石清水八幡宮臨時祭日の献納を畿内諸国に代わって穀倉院に勤めさせるという文書以降、史料に記述がないことから、この頃機能を失ったと見られる。
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